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雑記

好き嫌いの裏に潜む真の理由

味噌ラーメンは嫌いか?と聞かれました。そう聞かれたとき、正直わかりませんでした。即答できるような嫌いな理由はありませんでしたし、それ以前に食べたことがないので、好きも嫌いも無かったからです。

ではなぜ、自分はそんな質問をされるに至ったのでしょうか。味噌ラーメンを否定し、拒絶していたから、当然の流れとして、嫌いなのかと聞かれたわけです。嫌いな理由もなく、食べたことすらないほど興味のなかった存在なのに、あえてそう聞かれてしまうと、どう答えて良いのか全くわからず、果てしなく深い沼に足を踏み入れるようでした。
それは、自己を見つめ直す問いでした。

結論から言えば、僕は発想が許せなかったのだと気づきました。ラーメンに味噌を入れるという発想が、許せなかったのです。ツナマヨおにぎりもありえない存在と考えて、食べたことがありませんでした。こちらも理由は全く同じでした。ご飯にマヨネーズを合わせるという発想が許せなかったのです。
同様に、そばメシもあり得ないと決めつけていました。お好み焼きやたこ焼きにマヨネーズをかけることも、許せませんでした。今思い返せば、どれもこれも、その発想が許せなかったのです。そしてその発想に至った背景にある思想が、受け入れられなかったのです。
具体的にどの部分をどう受け入れられなかったのか、なぜ拒絶したのかは、はっきりとわかりません。どんな抵抗がなされたのか、自分でも理解できないのです。ただただ結果として、発想を受け入れることが自分の死を意味するほどに、拒絶をしていた事実だけがここにあります。

そもそも味に疎く、何を食べても美味しいと感じる僕が、食べたこともないメニューを拒絶し続けていることには違和感がありました。好き嫌いがあるかと問われれば、嫌いな食べ物はあまり思い付かないのですが、一方で食べたこともないもの、食べないと決めているもの、いわゆる食わず嫌いは多くあります。味噌ラーメンもそのひとつでした。

味噌ラーメンは嫌いかと聞かれてから短時間のうちに、大きなパラダイムのシフトがありました。衝撃が駆け巡りました。僕が許せなかったのは、嫌いだったのは、料理そのものではなかったのです。それに気づいた時、こんなことではいけないと思いました。これでは、アスペ全開です。心を解き放たなければ、エヴァは動かないし、視野も広がりません。そんな拒絶反応は、自ら道を狭めているだけです。

アスペかどうかに限らず、誰しも自分なりのこだわりやルールは持っていることでしょう。しかし、いつまでも過去に決められた厳格すぎるルールに縛られている必要はありません。誰の制限でもないのだから、尚更です。それはもう呪いであり、祓う必要があります。そのくだらない制約に気づいたのであれば、制限を取っ払って、開眼すべき時です。

それは想像を絶する恐怖です。でも、この壁を突破できるかどうかは、人生のこの先を大きく左右します。理由もわからない、いつ誰が決めたのかもわからないルールに従うことは、僕自身一番嫌ってきたことでした。それが今、自分が決めたとは言え、いつ何の目的で定めたのかもわからないルールによって、生活が、未来が、制限されているのです。
今こそここで、道を選択しようと思いました。大丈夫、自分は間違っていないと言い聞かせながら、勇気を持って、味噌ラーメンを食べてみたいと思います。

これは僕だけの問題ではなく、おそらくは多くの人の人生の好き嫌いの背景、行動選択の背景に潜んでいる問題だと感じました。物事を否定する時、拒絶する時、その背景には過去の自分自身への否定が隠されており、認めるべき機会を失っているのでしょう。そう思えば、好き嫌いのリアクションの前に、立ち止まる必要性を感じます。少なくとも自分自身は、これからの取捨選択の際に、味噌ラーメンのことを思い出すことにします。

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