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雑記

文章に資産価値はあるか

文章に資産的価値はどれほどあるのでしょうか。一昔前のように、文章化され書籍化された資源が貴重だった時代には、大変に価値が高かったことでしょう。時代と共に書き手は増え、書き手のためのプラットフォームは整い、検索や SNS によって拡散する門戸も広げられ、書き手は一気に増えて文字が溢れる時代が到来しました。短期間での出来事でした。今では、文章など読みきれない分量が毎秒生成されています。そこに、資産的価値は見出せるのでしょうか。

書籍化を志している人や、書籍化するための作業として文章を生産している人にとっては、相対的な希薄化など気にする必要はなく、ただただ決まった方針に従って文章を量産するだけのことだと思います。しかしそれ以外の大半の人にとっては、ただただ埋もれるだけの文章を量産することに何か意味はあるのでしょか。
SNS で注目を集めるために発言をするとか、自分自身のブランド化を図るために発言を行うという場合を除けば、多くの場合、文章を書く行為の費用対効果は薄いです。商売のためのブログを書いて集客をしようという考えは、もはや SEO テクニックが氾濫した情報操作全盛期のこの時代には意味がありません。

というわけで、基本的には文章の資産価値は著しく低いのではないかと考えています。動画の方に人は流れ、YouTube で情報を検索する時代に入り久しいですが、露出の可能性や接点の多さで言えば、動画、というか YouTube 一択の状態ではないでしょうか。最初から動画で情報を作成し伝えた方が、広くリーチできる可能性があります。

人々の消費動向は、動画に流れています。動画というより効率の良い手段を人類が見つけ、それが機能するようなプラットフォームが用意され、エコシステムまで形成されてしまった今、文章の、書籍の強みはほとんどなくなっています。
それでも、テキストの価値が無くなったかといえば、決してそんなふうには思っていません。むしろ、強みとして活かせる部分はあります。

まず何よりも、これは現時点ではという期間の限定が付きますが、文章は検索への対応に秀でています。先述の通り SEO によって検索自体の効果、価値は下がっていますが、文字ほど確実に、的確に、長期間検索対象として解析されてきた情報はありません。よって、文字による記録は、長期にわたって発見される可能性が残されるし、関連性を見出してもらえる可能性が高いことを意味ます。

言い方を変えれば、人のためではなく、機械のため、ソフトウェアのために文章を書くというパラダイムが欠かせないと考えています。文章は音声や映像よりも解析の精度がまだまだ優位にあります。それはつまり、ソフトウェアにとって、文章は人間を理解するための最適な入り口であるということです。
文章は、人のために書くのが前提ではありますが、決して読者、消費者は人間だけでは無いのです。むしろ、今後の文章コンテンツの大半は、ソフトウェアが、アルゴリズムが必要とするように進化していくことでしょう。

また同時に、月並みなことではありますが、記録を残すこと自体にも意義があります。文章を書くという敷居の低い方法でアウトプットを蓄積できることは、忙しい現代人にとって大変に効率が良いことになっています。スマートフォンと音声入力のように、入力させることの難易度は下がり、効率は上がっています。動画はまだその域まで達していません。
そしれそれらはやがて自己の資産として運用できる対象となります。その先に、確実に資産となり次なる価値を生むことでしょう。書くこと自体に、情報を整理し再構成する行為が含まれていますので、自己との対話で残される文章には、他にはない価値がまだ残されているのです。

文章の資産価値は、確かに相対的に下がった状態に見えますが、どこに対して何の目的で残すのかという点をクリアにすれば、まだまだこれからも貴重な価値を生み出し続けることでしょう。

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