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雑記

信用時代における消費の正当性判断の難しさ

消費か投資か、という問いがあります。貨幣経済全盛期の時代と異なり、徐々にお金の持つ意味合いが変わってきた現代社会では、その問いに答えることが難しくなっています。
消費が全面的に悪いというつもりはありませんが、例えば事業を安定化させる事、そして大きくする事に責任を負う立場であった場合、単純に消費することよりも投資によって事業のサイクルを大きくすることに注意を払うべきだと考えられます。もちろんそれは個人にも当てはまり、より安心安全な生活を目指す全ての人が意識しておくべきことです。

さて、価値の軸が移り変わり、お金を持っていればそれだけ偉いと思われる時代背景では無くなってきました。それだけでは憧れられない、それだけでは心を動かすことが出来ない、とも言い換えられます。この前提に納得がいかない人や、共感が全くできない人がいることは十分に予測できます。
多様化の時代、価値観もひとそれぞれであり、それを容認することが、社会性獲得の大きな割合を占めるようになりました。よって、以下に述べることは万人に通じることではないと思っています。

価値の軸がどの方向に変わったのかは、それこそ統一的な見解があるわけではありません。しかし、確実に変化が見られるのが、評価経済的な価値観の到来と浸透です。

信用が可視化された社会であり、信用がお金に等しい価値を生む社会であると言えます。

評価経済社会

社会関係資本の文脈からも、従来とは違う価値観の到来が感じられるようになりました。

事例として、評価経済社会における価値に目がくらんだ経営者の話を聞きました。別の言い方をすれば、承認欲求が肥大化した人です。ファンやフォロワーが欲しい、いいねが欲しいという欲求が強い人です。その人が単なる承認欲求の強い人と異なるのは、集まった評価が直接その人の経済的価値をも高める立場にある人だということです。
そんな人がお金をかけて SNS や YouTube で人気を買うわけです。つまり、貨幣経済的な価値から、評価経済的な、信用経済的な価値へと変換をしているわけです。でも多くの場合、その変換の効率が悪く、支払うお金が大量に必要になります。結果的に、お金の使いみちが偏っていき、たしかに評価経済的な信用につながるファンやフォロワーは獲得したが、その価値を最大化するための前提であった本業がダメになるというケースがあります。

この構図は、一昔前ならわかりやすいものでした。大金を手にした人が、フェラーリを買うとか、ブランド物をたくさん買うという行動に出たからです。バブル期の中小企業の社長のような、といえばステレオタイプ過ぎますが、お金の使い方として本人は投資のつもりなのかもしれないけれど、周囲から見ても後の歴史が判断しても、無駄遣いだったよねということになりがちです。
フェラーリならわかりやすくツッコミが来そうですし、本人も薄々こんなものが投資のはずがないと感じられるのですが、それがフォロワーやファンということになれば一気に見えにくくなります。無駄遣いなのかどうか、あるいは投資だとしてもどこまでが OK なのか、単一の基準での判定ができません。それもそのはず、価値基準が変化しているからです。

今の時代、一見すると、消費なのか投資なのかがわからなくなりました。長い目で冷静に判断することが必要ですが、蓄積すべき価値が何なのかを念頭に置いた判断が、従来以上に必要になってきています。

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