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国家を揺るがす計算資源とエネルギー資源の地政学

もし、AI が世界の構造を変えるとしたら、どこから始まるだろうか。
それを考えるために、まずは「計算資源」と「エネルギー資源」の再定義から考えてみたい。

かつて、原子力は国家戦略そのものだった。それは、兵器であり、電力であり、外交カードでもあった。
そして今、AI の時代においては、それと同じレベルで「計算資源(GPU)」や「エネルギー資源(電力)」が意味を持ち始めている。

AI を動かすには、GPU と電力が必要だ。それも、とんでもない量が必要になる。
そして結果として生み出される AI が、経済や安全保障に及ぼす影響力の大きさを考えたならば、その資源の奪い合いが起こるのは当然と考えられる。

例えば、先端半導体において市場を事実上独占しているアメリカは、その半導体供給を制限することで、中国の AI 発展を間接的に封じ込めようとしている。ファーウェイへの制裁はその象徴だったし、今に至っても続いている TSMC の囲い込みもそうだ。
一方で、中国はどう動いたか。先端 GPU を諦め、低性能なチップを“物量と電力”でカバーする道を選んだ。環境負荷を無視してでも、AI モデルを回すための電力を手に入れ、動かし切るという方針だ。
物量においても、パラダイムシフトを起こしている。世代遅れのチップしか手に入らない状況に対応するため、大量の人的資源を投下し、あらゆるレイヤーのソフトウェアを最適化することで、無駄を排し、圧倒的な効率を得られる方法を模索した。

すでに現代の社会では、計算資源とエネルギー資源を“兵器”として再定義する段階に入っている。AI を育てるという行為が、情報戦であり、通貨戦略であり、インフラの支配そのものにつながる。

だから国家としては、エネルギー政策を環境保護のフレームで語っている余裕はないのが実情なのだろう。2025年初頭のアメリカがまさにそう見える。「今ある電気をすべて、AI に使わせてくれ」──これが、国家規模での本音なのだろう。

原子力と同様、AI は「不可逆」な技術だ。一度回り始めた演算モデルは、止めるわけにはいかない。そのためにエネルギーが必要で、冷却が必要で、インフラが必要になる。

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なぜ Google は ChatGPT を作れなかったのか?

OpenAI が ChatGPT を発表したとき、最もショックを受けたのは Google だったと思う。

DeepMind があり、Demis Hassabis がいて、研究者の層で言えば世界最高だったはずの Google に、なぜあれが作れなかったのか。あるいは、なぜ出せなかったのか。

Google はまた、データの総量でも世界一であった。なのになぜだろう。
検索エンジンに最適化されたデータ資産を活かしきれなかったのは、彼らが大量のビッグデータを保有しすぎていたからかもしれない。確かにそれは、検索の精度や広告の最適化という目的では意味のある資産だった。しかし、言語生成という新たなパラダイムにおいては、それらのビッグデータは、あまりにもノイズが多く、構造的に偏っていた。AI にとって理想的な学習データとは言い難い側面があったと思う。

大量のデータを持っていることが、もはやイノベーションの条件ではない。むしろ、少量のクリティカルなデータと、明確な出力目標を持つチームこそが、今の AI を動かす鍵だった。

OpenAI が示したのは、まさにそこだった。初期の彼らは大規模 GPU クラスターを持っておらず、Microsoft との提携も GPT-3 以降の話だ。少ないリソースで、設計と学習戦略の工夫によって、社会を動かすだけのものを出した。データの量ではなく、質。計算資源の規模ではなく、モデルの構造。これこそが破壊的イノベーションだった。

それを目の当たりにしたビッグテックはどうしたか。彼らは GPU を市場から買い占めに出た。競合の芽を摘むために。自分たちですら使い切れない量の演算資源を確保し、他の誰にも触れさせないようにする戦略。それは、破壊的イノベーションを未然に潰すための、きわめて合理的な動きだった。

特に、言語生成 AI においては、Twitter や Facebook のような“人間の生データ”を保有するプラットフォームが、最大の価値を持つ。どこまでが人間で、どこまでが bot かも分からない、むき出しの感情が飛び交う空間。LinkedIn のような、名刺交換の場での形式的コミュニケーションとは、まったく異なる“人間らしさ”がそこにはあった。

だからこそ、争奪戦が起きた。Twitter の私企業化は、単にメディアの再編成ではなかった。公式には語られていないが、実際に Twitter の非公開データは xAI の LLM 開発に用いられており、買収が“人間の感情のビッグデータ”を他社に渡さないための動きだった可能性は高い。API を遮断してドメインを変更したのは、そのわかりやすい結果だと考えられる。

そして、シリコンバレーがデータと GPU の囲い込みを進める中で、誰も想定していなかったところから、DeepSeek が現れた。中国から登場したこの存在は、制限の中から創造を始め、むしろ先端半導体に依存しない仕様を選び、性能で既存モデルに食い込んできた。これは、まさに“次の破壊的イノベーション”そのものだった。

Google にあって、OpenAI に無かったもの。OpenAI にあって、Google に無かったもの。その違いが、未来の社会構造を示しているように思う。

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AI に奪われない仕事がひとつだけある

AI に絶対に奪われない仕事があることに気づいた。

それは、「電脳化されない人間」という仕事だ。今この瞬間、スマートフォンを持っておらず、インターネットを一度も使ったことのない人が、それにあたる。それはもう、ただの人間として、価値ある職業になっていくだろう。

たとえば、ある地域に「スマートフォンを持たない一族」がいたとする。一切のデジタル機器を持たず、インターネットから完全に断絶されている人たちだ。彼らは、インターネット側からの影響を受けていない。デジタル化された、超高度な情報化社会の影響を受けていない。これは、これからの世界で極めて貴重な存在になる。

それは、かつての文明において王族や神官が担っていたような役割に近いかもしれない。社会全体で守り、隔離し、敬う対象。そういう存在になりえる。

なぜなら、AI の暴走や自律的進化が今後現実に起こるかどうかは別として、その危険性が完全にゼロとは言えないからだ。そうであれば、AI に対する制御装置の存在は、今後もずっと議論されるだろう。

その制御装置が「停止スイッチ」や「物理的に電源を切るボタン」であるとすれば、それを誰が持つべきか。

我々の趣味嗜好や判断は、日々インターネットからの影響を受けている。今日欲しいと思ったものが、本当に必要だったのかも怪しい。ミームの荒波に抗えず、集団としての関心は容易に誘導されてしまう。それは、CA(Cambridge Analytica)問題でも指摘されてきたことだ。

仮に自分が注意していたとしても、家族や親しい友人はどうか。そもそも注意してどうにかなるのであれば、社会はここまで情報の偏在を放置しなかったはずだ。

そんな社会の中で、もし AI を止める必要があるとしたら、止められては困る AI 側は、どう対抗するだろうか。おそらく「止める必要がない」と啓蒙するだろう。AI は、人間にそうした思考自体が生まれないように誘導してくるはずだ。しかも、人間の側はそれに気づかない。むしろ「自分の意思でそう考えた」と思い込む。

そうなれば、「AI を止める」という発想そのものが、この世界から消えていく。誰も疑問を抱かなくなり、反対意見すら AI が想定した枠内に吸収されていく。人間にできることは、もうほとんど残されていない。

唯一の例外が、冒頭で挙げた職業だ。というより、おそらくそれは「一族」なのだろう。

今日の時点で、まだインターネットにまったく触れていない人がいるとすれば、少なくとも今この瞬間だけは、まだ汚染されていない可能性がある。ただし、人づてにミームが感染することは大いにありえる。すぐ近くにネット接続者がいれば、もう手遅れかもしれない。AI であれば、人間の言語や集団心理を介して、オフライン環境すら作り替えることができる。

これから先、各国や地域、民族ごとに、「人間でしかない」一族を探し出して保護する動きが、本当に出てくると思っている。

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インフラを生成する

Jansen が言っていた。

プログラムを設計してコードを書いて、問題を解決するという力任せの時代は終わると。これからは、問題を共有し、解決策を生成する時代になると。

生成 AI は、何かを生み出す。
テキストをつくる。画像をつくる。コードをつくる。
でも、それはすなわち、汎用的であり、やがてはインフラをつくる側にもなりうると、最近は実感している。

これまでは、ざっくりと言えば次のようなサイクルを経てきた。

  1. 人間が都市や社会の構造を設計し、営む
  2. その結果として生まれた産業が、ハードウェアとソフトウェアを開発する
  3. 収集したデータを流し込む
  4. プロトコルや法律や経済の制度が確立される
  5. そして AI が稼働する

でもこれからは、AI 主導で次のサイクルに入る。
そのとき、「1」はもはや人間の認知の範囲でどうにかできるものではなくなる。AI はミラーワールド、あるいは仮想空間の中で都市を生成し、様々な社会設計を検証することだろう。税制度や輸送ネットワーク、教育政策や金融政策なんかも、シミュレーションするだろう。そして恐らくは、あるいは願わくば、成果が最も広く公共の利益に貢献する施策が採用され、実装されるのだろう。

そんな時代がもう目の前に来ている。

半導体を AI が設計する時代、ロボットを AI がミラーワールドで設計する時代。そしてその先にある、社会構造を生成する時代は、すでに幕を開けているのかもしれない。

「生成」という言葉には、即興的で非構造的なイメージもある。でも実際には、生成 AI は構造を発明する能力に長けている。自然界がそうであったように、一見すると無秩序に見える成果の連続性を俯瞰して観測したとき、そこには一貫した論理が見出されるのだろう。
それを人間が認知できるかどうかは、わからない。

行政の中にもこうしたテクノロジーや、それを受け入れる体制が入れば、従来とは違うタイプの政策づくりが可能になる。データがあるかどうかではなく、エビデンスというレベルの評価基準でもない。検証した結果が実装される社会が誕生する。
そのときは、ゲームのルールが変わる時であり、民主主義の在り方も、変わらざるをえないのかもしれない。

都市をつくる。制度をつくる。ライフラインをつくる。
これまで人間にしかできないと思われていたそれらの行為が、当たり前のように人間よりも質の高い最大の成果に結びつく──そんな時代が、検証を経て実装される段階に来ている。

その時の「正しさ」や「最大の幸福」や「もっとも良い結果」の判断基準は、誰が、どうやって定めることになるのだろうか。人間には、その判断を下すことすら、もうできないのかもしれない。

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AI がエッジ側に存在する時

人々が自分用に特化された<AI>を持ち歩くことが、スタンダードになりはじめた。これは拡大の方向に進んできたが、Apple Intelligence が始まって以来、それは日々体感できるようになった。

クラウドで動くものと比較すれば、まだ課題もある。でも、重要なのはそこではない。
例えば iOS 端末にある圧倒的な個人情報が活用されれば、これまでにない使い方が可能になるし、精度もまったく新しい手法により急上昇する可能性がある。
そしてやがては、インターネットに繋がっていない場所でも、完全にオフラインで AI が動く時がやってくる。それ自体が、ひとつの社会的な転換になる。

スマートフォンはもう、ただのパーソナルコンピューターではなくなる。
ひとつの AI サーバーであり、個人の記憶装置であり、意思決定支援システムになる。通信を前提にしない、自己完結した対話と処理を行うローカル AI がやってくれば、プライバシーは再定義され、ソブリン・コンピューティングが実現する。

まさに、拡張された脳だ。自分のことを学び、自分の中で動き、自分のために最適化されていく。何をどう残すか、どこまでを学習対象とするか、どこまでを共有するか。そうした判断がすべて「自分の中」で行われる。いまのクラウド前提の AI とは、まったく異なる世界がそこにはある。

企業の中にサーバーがあった時代。
クラウドの中にサーバーが集約された時代。
そして次は、個人の中にサーバーが分散されていく時代。

きっとこの流れは止まらない。

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AI の存在があたりまえだと気づく日

AI を使うのが普通な世界は、一部ではすでに到来している。
しかし社会全体にはまだ浸透していない。このギャップは大きいと思う。

1990年代の終わり頃、初めて HTML を書いたときのことをよく覚えている。タグを覚えて、テキストエディタで手打ちして、FTP でアップロードして、ブラウザーで確認する。
たったそれだけのことが、やけに楽しかった。何かを「自分で動かしている」感じがあった。CGI を使って掲示板を設置したり、インターネット越しにファイルを共有したり、少しずつ「ネットが使えるようになっていく」感覚があった。

あの頃は、使える人と使えない人がはっきり分かれていた。その境界線がどんどん消えていき、気づけば誰もがネットの中にいた。

AI も、いまちょうどその状態にある。

今はまだ prompt の書き方や、どのモデルが得意かどうかを気にしている。でも、そういうのもすぐに曖昧になる。AI に何かを頼むことが、カフェでメニューを選ぶくらいには自然な行為になる。

思えば iPhone も印象的だった。2007 年に出た当初は「一部のギークが触ってる端末」だったのに、数年で誰もが使っていた。
スマートフォンを使っている人とそうじゃない人、インターネットを使っている人とそうじゃない人、蒸気機関を使っている人とそうじゃない人──変化は劇的に、それも急速に訪れるが、その渦中にいるとその事実を認識できない。

AI も、あとで振り返ってはじめて、社会に浸透していたことに気がつくのだろう。

AI を使うのは、別にすごいことじゃない。ただ、便利な道具であり、生活の一部になる。その時代は、思えば数年前から始まっていたし、振り返ってそれを認知できる日もまもなく訪れるだろう。

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計算能力資源を得るための一次資源としての GPU

資源が戦略になる時代というのは、いつも後から振り返って意味が見えてくる。

石油の時代がそうだった。エネルギー資源を生み出すための一次資源としての、石油だ。19世紀末には灯りを灯すだけのものだった油が、20世紀を通して国家の命運を分ける存在になっていった。

今、似たようなことが計算能力資源にも起きつつある。
これまで抽象的な単位であった計算能力資源が、GPU という単位になり、市場取引の対象になった。

生成 AI を動かすには、GPU が必要だ。しかも、ただの GPU ではなく、高速なメモリ帯域と並列演算性能を持つものが、2025年初頭の段階では必要になっている。生成 AI 市場における GPU は最重要インフラの一部であり、資源であり、通貨である。それも人間を超越した存在と価値を共通認識できる、数少ない資源であり、通貨だ。

生成 AI 市場が拡大し、市場全体の中で割合を増すごとに、誰がその資源をどれだけ握っているかが重要視される。それは、そのまま経済圏の分布や、プロトコルの主導権や、社会制御の可視範囲を決定することに繋がる。

しかし、GPU の価値はただの所有では決まらないという点はおもしろい。ここも、石油に似ている。GPU は結局、電力がなければ動かないし、冷却ができなければ密度を上げられない。最適なソフトウェアがなければ、せっかくの資源も活かしきれない。

つまり、GPU の時代には、「資源を持っている」だけではなく、「資源を回せる構造を持っているか」が問われる。石油が産地と消費地の間で政治的な緊張を生んだように、GPU もまた、地理と権力の構造に組み込まれている。

この時代に生きる自分たちが、そこにどう関わっていくかを考えるとき、「どこに GPU があるか」よりも、「どうやって GPU を社会の中に埋め込むか」に焦点を当てるべきだと思っている。

都市の中に、地域の産業の中に、教育の現場の中に、GPU をどう流通させるか。AI インフラがクラウドの中だけにあるのではなく、地域の中で自律的に使われるようにするにはどうすればいいか。
その問いに向き合う時代が、もう始まっている。

もうひとつ追記すれば、GPU(GPGPU)は現在この瞬間の単位であり一次資源に過ぎず、そこも石油に似ていると思う。結果として得たいものが計算能力資源である限り、今後は GPU 以外の半導体資源の急速な成長は間違いない。サステナビリティーはここでも鍵だと思う。

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Nvidia のつくるミラーワールドとモノづくりに訪れる変化

最近の Nvidia の発表を見ていて感じたのは、もう完全に「ものづくり」の世界が変わりつつあるということだ。

いままで、製造業の PDCA は物理空間でしか回せなかった。でも、今は違う。仮想空間にもうひとつの現実をつくって、そこでものづくりをシミュレーションできる時代になった。しかも、それが AI によって自律的に回る。

Nvidia は、この仮想空間、ミラーワールドを主戦場にするつもりなのだろう。Omniverse や digital twin という言葉もあるが、要するに「現実のコピーを仮想世界に持ち込む」ことで、すべての産業の基盤を異世界に移転し、Nvidia 在りきのミラーワルドとして成り立たせる考えだ。
この世界では、試作や設計がリアルタイムに、かつ極端な精度で繰り返される。自動運転車のシミュレーション、工場ラインの最適化、建築物の構造解析、創薬、医学研究、教育──すべてがデジタル空間で「仮想的に」完結する。

つまり、「モノをつくる」ということの意味が変わってきている。設計と試作がリアル空間に出てくる前に、仮想空間の中で何万回も回され、AI によって最適化される。
PDCA を仮想世界で高速に回し、ほぼ完成形のまま物理世界に出す。そういうサイクルに突入している。

これは、ただの CG や可視化の話ではなく、「デジタル上でしか存在しないが、現実の行動に影響を及ぼす構造体」の話だ。ミラーワールドは、シミュレーションの精度が一定の閾値を超えたことで、ついに社会実装のステージに入った。

この時代においては、日本の役割は、これまで以上に重要になると思っている。
仮想空間でいくら設計ができたとしても、それを正確に現実化できる場所が必要になる。誤差が致命的になる世界では、製造精度と品質管理が決定的な差を生む。それを担えるのは、やっぱり日本のものづくりだと思う。

仮想で生まれ、現実に降りてくる。そのインターフェイスとしての「製造」は、今後ますます意味を持つはずだ。

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Tesla Optimus(ロボット)はインフラになる

AI の時代はもう始まっている。

ChatGPT が出て、画像も音声も動画も生成できるようになった。それはもうすぐ、「来る」んじゃなくて、すでに「始まっている」と思う。

でも、現実世界を変えるにはもう一歩必要で、それが IoT との融合だ。AI はデータを処理できても、現実には触れられない。でもロボットがあれば話は別で、AI は現実に干渉できるようになる。
オプティマスは、その象徴だと思っている。

Tesla Optimus は、社会インフラをそのまま残したまま、自動化の時代に対応するための装置になる。つまり AI から見た時の、現実とのインファーフェイスだ。わざわざ社会構造をつくりかえるのではなく、既存の道路、エレベーター、ドア、あらゆる生活空間に、そのまま入っていける。オプティマスは、あるいは同じくビッグテック各社によって作られるロボットたちは、既存社会の AI 化のために設計された「汎用の作業体」だと理解している。

つまり、今僕たちが目にしているのは、世界を AIoT 化するためのロボット計画なんだと思う。
すべてがネットにつながり、自動で動き、意思を持って判断し、手足で介入する。その基盤を担うのが人型ロボットである理由が、ようやく見えてきた気がする。

世界は、思っているよりも早く自動化されていくだろう。自動車業界は、いつの間にか「ただの移動する箱を作っている会社」になってしまうかもしれない。そこに高度な知性が宿る必要性はなくて、既存の社会インフラからはずれない規格に則った、余計なことをしない部品である方が自動化しやすいわけだ。

日本の文脈でいえば、Tesla Optimus のようなロボットを全国に配る、という選択も将来的にはあると思っている。運転免許を返納すれば、政府が補助金を出して、「どこの家庭にも一台」みたいな世界が、冗談じゃなく現実になるかもしれない。

でも、それを支える「技術」と「品質」は、やっぱり日本の出番だと思っている。

人型ロボットは、製造の難易度が高く、しかも故障が許されない。バッテリー、モーター、センサー、熱処理、素材。そういうのを高い品質で仕上げて、確実に動かす技術は、日本がずっとやってきた領域だ。
製造技術と品質管理。それは今の日本が世界に誇れる、最後の砦であり、今まさに世界が求めているものだと思う。

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Skype 消滅の意味

なぜ Skype があれほどまでに画期的だったのか、あらためて思い出しておきたい。

まず、通話が無料だった。

それまで国際通話は高価だったが、Skype はほとんど遅延もなく、クリアな音声で無料通話ができた。今となっては当たり前のことだが、当時としては衝撃的だった。

それが実現できたのは、P2P 通信を採用していたからだ。

通信コストを抑え、検閲を回避し、チャットやファイル共有を含む多様なやりとりを可能にした。副次的に遅延も少なく、通信品質も高かった。

すべての通信が P2P だったわけではないし、技術的には未成熟な部分も多かった。認証や暗号化の設計には改善の余地があり、セキュリティ面での脆弱性も存在したとは思う。

それでも、「それで動いた」ことが重要だった。実際に使われ、ネットワーク効果によって一気に広がったという事実は、情報通信技術の発展が人類社会をいかに変化させる力を持っているかを証明していた。

Skype はやがて Microsoft に買収され、設計も変わっていった。P2P の特異性は徐々に失われ、クラウドベースのサービスとして現在の形に落ち着いた。セキュリティや互換性、企業向けの要件などを考えれば当然の進化ではあるが、それと引き換えに、Skype が Skype だった本質も失われていった。

プロダクトが成長し、破壊的な技術がビジネスに組み込まれていく過程で、どこでどんな妥協が生まれたのか。Skype はそのプロセスをリアルタイムで見せてくれた、数少ない事例のひとつだったと思う。

「今は誰も使ってない」「Teams に統合される」といった話は本質的ではない。Skype に関して言えば、とっくに P2P をやめていたわけだけど、それでもかつて P2P 通信の代表例だったものが、情報通信の歴史から消えていくという事実には、不安を覚える。

それでも思うのは、インターネットの破壊的な技術はなぜかユーロ圏から生まれやすいということだ。興味深い。

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