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日本のものづくりとサイバーセキュリティの責任

日本のものづくりは、長いあいだ「品質」という言葉に象徴されてきた。精度、耐久性、職人性、そして信頼。
しかし AI や IoT が前提となる今日、もはや品質は物理的な堅牢さだけでは語れない。ハードウェアそのものが攻撃対象となり、サイバー空間と実世界が直接つながる時代に入ったことで、日本製の機器や部品は新たなリスク環境の中に置かれている。

これまでサイバー攻撃の主戦場はサーバーやネットワークといったデジタル領域だった。だが今は、自動車の ECU、ロボットの駆動部、工場の制御システム、医療機器、通信モジュールなど、実世界の物理装置そのものが攻撃対象となっている。
もし内部の制御を乗っ取られれば、単なる情報漏洩ではなく、事故、停止、誤作動といった実害につながる。

この構造変化は、日本にとって特別な意味を持つ。世界中の精密機器、車載部品、ロボティクスの多くに日本製のハードウェアが使われているからだ。日本製部品に脆弱性があれば、攻撃者はそれを起点に世界のどこへでも侵入できる。
逆に言えば、日本がこの領域を守り切れるかどうかは、国際的なサイバー安全保障の重要な一部を担っているともいえる。

ここで問題になるのは、従来の「ものづくりの品質観」がサイバーリスクと同期していないことだ。製造業は長期スパンで安全性と信頼性を設計するが、サイバー攻撃は数日、数時間単位で変化する。
物理とデジタルの時間軸は本来異なるにも関わらず、AIoT ではこの二つが重なり合い、同じレイヤーでの設計が求められる。

つまり、ものづくりとサイバーセキュリティはすでに切り離せない関係になっている。完成した製品にセキュリティを“後付け”する発想は時代に合わない。
部品段階、組み立て段階、デバイス段階、そしてネットワーク接続の段階、すべてで一貫したセキュリティ設計が必要になる。品質の定義を「壊れない」から「攻撃されても壊されない」へと拡張する必要がある。

世界ではすでに、ハードウェアを対象とした攻撃検証の文化が広がりつつある。車や産業機器、重要インフラの制御盤などが公開の場に並び、専門家が脆弱性を探し、修正のきっかけを作る。
これはソフトウェアのバグバウンティ文化がハードウェア領域にも波及している証拠でもある。こうした“攻撃と防御の実験場”が存在することは、産業レベルの品質向上に直結する。

しかし、多くの国では、依然としてハードウェアセキュリティに対する意識は十分とは言い難い。特に日本の製品は「堅牢で安全」というブランドイメージが先行し、脆弱性検証の文化が後回しになりがちだ。これは、ものづくりの強みがそのままサイバーリスクの温床になり得るという逆説を孕んでいる。

今後、日本の産業が世界で信頼を維持するためには、ものづくりとセキュリティを同じ文脈で設計する必要がある。製品を作る工程そのものが、セキュリティの工程としても機能するように、設計思想を統合しなければならない。ハードウェアを作る国が、その安全性を保証できる国として振る舞えるかどうかが、国際競争力の鍵になる。

日本は、ハードウェアの責任を負う国であると同時に、サイバーセキュリティの責任も負う立場にある。製造業、インフラ事業者、通信、自治体、研究機関――多様な領域が連携し、産業基盤全体を守る必要がある。
ものづくりとサイバー防衛をつなぐ視点を持つこと。それこそが、日本がこれからも世界に信頼されるための条件であり、新しい意味での“ジャパンクオリティ”なのだと思っている。

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雑記

情報市場としての日本と地方都市が持つ計算能力

金融市場には「世界一のマーケット」という分かりやすい中心があった。ニューヨークであり、ロンドンであり、あるいは一時期の香港やシンガポールだった。けれども今の金融は、規制や地政学の影響で分散し、「ここさえ見ておけばいい」という単一の場所はほとんど消えつつある。
では次に、世界がひとつの中心を求めるとしたら、その対象はどこになるのか。それは、「情報市場」ではないだろうか。

ここで言う情報市場とは、単にデータを売買するためのマーケットではない。計算能力とデータとアルゴリズム、それらを運用するためのインフラと人材、そして信頼を担保するルール一式を含めた、総合的な取引の場である。AI モデルをどこで学習させ、どの国の法制度と文化のもとで運用するか。その選択そのものが巨大な経済価値を持つようになったとき、情報市場は金融市場と同じ、あるいはそれ以上の重みを持つことになる。

そう考えたとき、日本は候補から外せない。
法治国家としての安定性があり、恣意的な没収や法の遡及適用が起こりにくいこと。送電網が安定しており、停電率が異常に低いこと。自然災害は多いが復旧能力が高く、世界から「壊れても戻る」と信頼されていること。さらに、半導体を含むハードウェアを自国で設計・製造できるだけのものづくり基盤がまだ残っていること。これらを組み合わせると、「情報を預ける場所」としてはかなり特殊な条件を備えている。

情報市場の観点から見ると、日本は「真ん中」に立つ資格がある。アメリカでも中国でもないことは、地政学的には弱点にもなり得るが、中立的なインフラ提供者としては強みになる。データの所有権やプライバシーに関するルールを、比較的冷静に設計し直せる余地もある。問題は、そのポテンシャルがいまだに東京中心の発想に縛られていることだ。

情報市場としての日本を考えるとき、東京だけを見ていても構造は変わらない。
必要なのは、地方都市が「計算能力を持つ」という前提への書き換えである。これまで地方は、人と企業を誘致する対象として語られてきた。これからは、計算能力とデータを誘致する主体として位置づけ直す必要がある。人口を奪い合うのではなく、情報と処理を引き寄せる競争に転換するイメージに近い。

日本には、再生可能エネルギーや余剰電力を抱える地域は少なくない。土地があり、気候や水資源の観点で比較的冷却に有利な条件がそろっており、災害リスクを織り込んだうえで設計できる余地がある。そこに中規模のデータセンターやエッジノードを設置し、地域ごとに計算能力を保有させる。そうすれば、東京一極集中のクラウドとは別系統の「分散した情報市場」を国内に構築できる。

地方都市が計算能力を持つことの意味は、単にサーバーを設置するというレベルに留まらない。自動運転やドローン配送、遠隔医療といった AIoT のサービスは、遅延や現場の信頼性が極めて重要になる。実証実験を行う場所として、人口密度が低く、かつ生活インフラが整っている日本の地方は理にかなっている。そこで動くサービスの裏側に、その地域が保有する計算能力があるとすれば、地方そのものが情報市場の現場になる。

住宅単位で見ても同じ構図が見えてくる。以前書いた 3LDDK のように、住まいの中に小さな発電と計算の機能を組み込む発想は、住宅をローカルなノードに変える試みである。町単位で見れば、その集合がひとつのクラスタになり、さらに複数の自治体を束ねた地域クラウドのような構造をつくることができる。中央の巨大クラウドにすべてを委ねるのではなく、地方が計算能力を軸にした自律性を持つということでもある。

情報市場としての日本を構想するなら、金融の発想が参考になる。かつての金融センターは、資本と人とルールが集中する場所だった。これからの情報市場では、計算能力とデータとルールが集中する。ただし、物理的には分散している。見えない配線でつながった地方都市のデータセンター群が、ひとつの日本市場を形成する。海外から見れば、それはひとつの大きな信頼可能なプラットフォームとして映るはずだ。

そのとき重要になるのは、「どこに置くか」ではなく「どう設計するか」である。
地方に計算能力を置けばよい、という話ではない。電力と土地とデータの流れを統合し、情報の扱いと収益の配分、リスクと責任の所在を明確にしたうえで市場設計を行う必要がある。そこまで踏み込めば、日本は単なるデータセンター立地ではなく、情報市場そのもののルールメーカーになり得る。

情報市場としての日本、そして計算能力を持つ地方都市。この二つの視点は、本来ひとつの絵の中に収まるはずだ。中央に集約するのではなく、各地が「自分の計算能力」と「自分のデータ」を持ち寄ることで成り立つ市場。その全体を束ねる枠組みを、日本から提示できるかどうか。
その成否が、次の 10 年における日本の立ち位置を決めるのだと思っている。

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デジタル赤字

経済産業省 PIVOT プロジェクトのレポートを読んだ。

これまで個人的にも、電力と計算能力資源が国家間・企業間で価値の基軸になりつつあると繰り返し主張してきた。経産省 “デジタル経済レポート 2025” でも、まさに同じ問題意識を“デジタル赤字”という統計的ファクトで可視化している。「稼げる領域で稼げていない構造」が根本原因だと明示された点が重要だ。

また、報告書は SDX – Software Defined Everything を前提に、自動車や産業機械の輸出競争力までもがソフト依存になると警告する。SDX 時代の“隠れデジタル赤字”を直視し、長期視点で戦略を組み、早期に実行していくことが欠かせない。

具体的な実装アイデアとして、低層レイヤーの技術革新による業界スタンダードの奪還はもっと真剣に議論されるべきだと感じた。プラットフォームごと選択肢を他者に握られる未来だけは回避したい。その危機感を行政文書が公式に共有した意義は大きい。

レポートは危機感を訴え、行動を呼びかけている。対して、僕らが進める エッジ DC × 再エネ × 海外 JV の取り組みは、その一つの応えになり得ると思った。計算能力資源を保有し、得意領域を尖らせ、市場に展開する。それも国内完結ではなく、日本モデルを輸出する形で。ここ数年かけて描いた事業マップは、レポートの処方箋と重なっている。

やるべき事はぶれない。それを再確認できた。

未来は静かに、しかし確実に動き始めている。

先日主催したイベント、ENJIN のオープニングで掲げた言葉そのままだ。今日も淡々と、だが確信を持って実装していく。

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ワットビット連携

クラウドも、AI も、すべては電気の上に乗っている。計算は抽象的に見えて、その実体はワットだ。GPU を回すにも、ストレージにアクセスするにも、ネットワークを維持するにも、すべては電力を必要とする。
つまり、デジタルの支配権とは、電力の支配権そのものである。

「データの主権」とは、「電力の主権」を獲得することに他ならない。どこの国であっても、企業であっても、次の時代においてインフラ基盤を維持し発展させようとするならば、確保すべきはサーバーでも、ソフトウェアでもない。土地と電気だ。

土地があり、持続的なエネルギーがあり、災害に強い地域。そこにこそ、次世代のデータと AI の基盤が築かれる。
結果、インターネットの構造はすでに“中央”ではなく、“多極分散”に向かっている。拠点の数と、そこに流れ込む電力の信頼性こそが、競争力とされる時代になる。

今までは「電気を売ること」が再生可能エネルギー事業の出口だった。必要な電力総量は増すものの、電力消費の形は従来型の重工業主体では無くなりつつある。だがこれからは、「電力を効率よく計算に使うこと」が電力の出口になっていく。

電力の地産地消とは、もはやライフスタイルの話ではなく、インフラの独立性を守る地域の戦略になるべきだろう。これから先に問われるのは「土地にどれだけの電力を安定的に供給できるか」になる。
だからこそ、「ワットとビット連携」が問われている。そして、そこに残された可能性が、日本の地方には、まだある。

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世界に輸出された日本のハイコンテクスト表現

言葉ではなく、構造や演出そのものが“意味”を持つ時代になった。

日本の文化はもともと、ハイコンテクストな構造を持っている。説明しすぎない。行間に置く。背景に含める。
そうした表現はすでに日本国内に止まらず、そのままの形で“記号”として世界に輸出されている例がある。しかも、それが他国の文化や表現様式と交わることで、新しい文法を作り出している。

その中でも特に定着しつつある「慣用句的演出表現」に関しては、今後その名前を定義し、定着させてほしいと願っている。

金田スライド
アニメ「AKIRA」の中で、金田がバイクでスライド停止するあの名シーン。赤いバイクが地面を滑るように止まり、その摩擦と同時に空気が引き締まる。
「アニメでバイクをかっこよく止める=金田スライド」という一種の記号化。それが視覚言語としてグローバルに通用するようになっている。

素子の自由落下
「攻殻機動隊」で、草薙素子が高層ビルから飛び降りるシーン。
静かな重力。無音の落下。カメラワークのゆるやかな回転。サイバーパンク的な映像作品において、定番の演出になっている。
派手さのない落下が、逆に緊張感を生む。数十年経った今も、映像作品の空気感を定義し続けている。

板野サーカス
「超時空要塞マクロス」などに登場した、板野一郎氏による超立体的ミサイル演出。
発射されたミサイルが空中を複雑に軌跡を描きながら飛び、残像とスモークと爆発の演出が同時に空間を設計する。
このスタイルは、空中戦における「絵の描き方」の世界標準ではないだろうか。もはや人名を超えて、表現形式そのもののメタファーになったような存在感がある。

これらの演出に共通しているのは、文字ではなく、動きや構図そのものが語彙になっているという点だ。
言語を介さず、シンボルや運動の記憶によって「通じてしまう」表現。日本のハイコンテクスト文化が、翻訳ではなく直接“輸出”された証のようにも思える。

これからも、こういった演出の定着と交差を観測していきたい。
それは、文化の拡張の記録でもあり、新しい時代の“語彙”の誕生を目撃する作業でもある。

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写真

Waymo 東京上陸

肉眼で確認。

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本当に伝えたかったこと

日本文化には、辞世の句というものがある。
だが現代人の我々からすれば、解説がなければその意図を汲み取るのは難しい。

俳句はもともとハイコンテキストな形式だ。さらに、辞世の句ともなれば、詠み手の時代背景や人生まで含めて理解しておく必要がある。だから、解説が必要だ。

しかし、本当に詠んだ人は解説が必要だとまで思っていたのだろうか。言わずとも、教養さえあれば伝わると、信じていたのではないか。

少し前に、話が通じていなかったことに気づく出来事があった。
何年も、何度も話していたつもりだったのに、ある瞬間に「今やっとわかった。こういうことだったのか?」と問い返された。その理解は正しかった。だが同時に、そこに至るまでの間、その大前提がまったく伝わっていなかったという事実に衝撃を受けた。

こちらとしては当然、すでに共有されていると思っていた。それを前提に、さらに複雑な話をしているつもりだった。でも、そもそもスタート地点が共有されていなかったのだ。

そのとき、はっとした。これは今回だけではなく、他にも多くの言葉が、同じように伝わっていなかったのではないか。理解されたと思い込んでいただけで、本当は多くの人に何も届いていなかったのではないか。

伝え方が悪かったのだろう。結果が得られていない以上、責任は発信側にある。
でも、そもそも「伝えるべきこと」だったのだろうか。伝えなければいけないという思い込みの中で、誰も求めていないことを一方的に語っていただけかもしれない。

何かをすべて伝え、すべての理解を得る必要があるとは思っていない。むしろ、それは不可能に近い。なにかを伝承したいわけでもない。
行動と結果があって、その手段として情報の伝達がある。伝えることは手段であって、それ自体が目的になるべきではない。

モニターの解像度を無視して GPU がどれだけ美しい映像を描画しても、意味がない。出力の限界を決めるのは、モニター側=自分自身である。つまりは、自分の表現解像度をあげなければならなかったのだ。

今回の件では、たまたま「時流」が背景にあった。痛みの感覚を伴う具体的な事例が、受け手に多方面からの情報として同時に流れ込んだ。だからこそ、これまでとまったく同じ内容を改めて伝えただけで、驚くほどスムーズに意図が通じた。

受け手の目が開いていた。焦点が合っていた。そういう“タイミング”が整っていた。その上で、きちんと理由が明確になっているときに、適切な解像度の映像を描写するだけでよかったのだ。この状況を正しく読み切る力がなければ、それは決してできない。

そしてもう一つ。僕の話には、明確な「行動」や「結果」を求める意図がなかったのかもしれない。正確に言えば、ただひとつだけ目的があった。

「チ。地球の運動について」の中で、それ何の話ですかと聞かれたヨレンタがこう言った。

わからない?私の感動を、必死に伝えている。

そう、これまではただ、感動を伝えること。それが自分のやるべきことだと思っていたし、それがすべてだった。
感動が伝わらなければ、人は動かない。社会は耳を貸さない。だから、それが無駄だったとは思わない。でも、それだけでは何も始まらないことも、ようやく分かった。
だから、伝え方を変えようと思った。

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日本という選択肢

情報インフラが国家戦略と結びつき、クラウドも AI も地政学の文脈で語られるようになったいま、国家はどの情報網に接続するか、どの計算能力資源の上で社会を動かすかを選ばなければならない時代になった。

多くの国は、その選択肢を Big Tech に委ねてきた。アメリカのクラウドか、中国のクラウドか。どちらかを選ぶというよりは、どちらかに組み込まれるようにして使うという現実だった。欧州の一部では「主権」を意識した構想が立ち上がっているが、それとて依存の再構成でしかない側面もある。
この点は、かつて CERN で議論を重ねて僕自身も実感していたことだ。

SIVIRA はスタートアップを超えていく(あるいは世界一の企業とは何かという問い)

そんな中で、僕が考えているのは、「日本」という選択肢の存在だ。

それは、“日本が技術的に優れているから”という意味ではない。計算能力資源や潜在的な電力資源の保有量、ソフトウェアの競争力、どれをとっても、日本は相対的に不利な条件にあるかもしれない。
それでも、日本には明確な価値がある。それは、中立性と透明性、そして信頼という目に見えないレイヤーだ。

法治国家であり、災害耐性が強く、グローバル規模でのデータ利活用に慎重であり、加えて社会的なセキュリティレイヤーが高く保たれている。これは、国家単位での「安心」を支える土台になる。

AI モデルの学習においても、ただ計算すれば良いわけではない。データがどこで処理され、どのような倫理のもとで学習されるかが、将来的な価値に影響を与える時代になってきている。倫理もまた、インフラの一部になった。

そうなったとき、計算能力資源と法制度の“組み合わせ”として日本を選ぶという選択肢が、少なくともひとつの構造的意義を持ち始める。国境を越えた企業や団体、あるいは市民レベルの開発者が、「どこの計算能力空間でプロジェクトを動かすか」を検討するようになったとき、政治的にも文化的にも“許容できる国”として日本が機能すると考えている。

かつて金融の世界で、スイスや NY や香港やシンガポールがそうであったように。特定の分野に於いて、日本は、もっと言えば日本の地方都市は、世界の中心になりえる。日本という選択肢を、世界が求めているのかもしれない。

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Nvidia のつくるミラーワールドとモノづくりに訪れる変化

最近の Nvidia の発表を見ていて感じたのは、もう完全に「ものづくり」の世界が変わりつつあるということだ。

いままで、製造業の PDCA は物理空間でしか回せなかった。でも、今は違う。仮想空間にもうひとつの現実をつくって、そこでものづくりをシミュレーションできる時代になった。しかも、それが AI によって自律的に回る。

Nvidia は、この仮想空間、ミラーワールドを主戦場にするつもりなのだろう。Omniverse や digital twin という言葉もあるが、要するに「現実のコピーを仮想世界に持ち込む」ことで、すべての産業の基盤を異世界に移転し、Nvidia 在りきのミラーワルドとして成り立たせる考えだ。
この世界では、試作や設計がリアルタイムに、かつ極端な精度で繰り返される。自動運転車のシミュレーション、工場ラインの最適化、建築物の構造解析、創薬、医学研究、教育──すべてがデジタル空間で「仮想的に」完結する。

つまり、「モノをつくる」ということの意味が変わってきている。設計と試作がリアル空間に出てくる前に、仮想空間の中で何万回も回され、AI によって最適化される。
PDCA を仮想世界で高速に回し、ほぼ完成形のまま物理世界に出す。そういうサイクルに突入している。

これは、ただの CG や可視化の話ではなく、「デジタル上でしか存在しないが、現実の行動に影響を及ぼす構造体」の話だ。ミラーワールドは、シミュレーションの精度が一定の閾値を超えたことで、ついに社会実装のステージに入った。

この時代においては、日本の役割は、これまで以上に重要になると思っている。
仮想空間でいくら設計ができたとしても、それを正確に現実化できる場所が必要になる。誤差が致命的になる世界では、製造精度と品質管理が決定的な差を生む。それを担えるのは、やっぱり日本のものづくりだと思う。

仮想で生まれ、現実に降りてくる。そのインターフェイスとしての「製造」は、今後ますます意味を持つはずだ。

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2025年の社会情勢

新トランプ政権の誕生

Elon Musk 等、モノづくりに実績のあるデジタル実業家が政権に参画し、計算資源をいかにアメリカの経済成長と国家安全保障に活用できるかを見据え、実行に移している。ポイントは、ソフトウェアを中心としたドットコム企業の残党ではなく、モノづくりに比重を置く企業が力を持ち、影響力を増している事だ。分断された世界でも生存していくための、国力の強化に直結する。同時に、その国家の枠組みを超えてしまうほどの影響力を持った企業が、国家との相互依存関係を強化し、相互に影響し合うことで次の10年を生存しようと画策していると理解できる。

シリコンバレーで急成長した、計算資源とその利活用を軸に、アメリカは産業基盤を強化してきた。国家と企業とが相互に影響し合い、結果として独占的な市場形成に至る企業を複数排出してきた。大成功だった。しかしそのモデルも一筋縄ではいかない時代に突入し、今回の変革に至る。

エネルギー戦略転換

世界的に見て、エネルギーの重要性、価値は増すばかりだ。計算資源を稼働させるために必要なエネルギーを大量に保有することは、すなわち圧倒的な経済力、戦闘力、影響力を有することに繋がる。ロシアの現状を見れば、エネルギーのみが重要なわけではないとわかるが、必須の条件のひとつであることに疑いはない。
環境負荷という先進国家間の枠組みを一旦忘れて客観的に見渡せば、エネルギー資源を潤沢に持つ中国やロシアには圧倒的な強みがあると解釈できる。

次世代の経済及び社会を構成する最重要な要素を断片的に有するユーロ諸国は、足並みをそろえるための規制強化によって、先行している国家を牽制している。そこから一気にバランスを崩し、自国が生存するために勝ちに行く判断をするならば、エネルギー政策を転換するというアメリカの判断もあり得たわけだ。

OpenAI の誕生とその衝撃

加えて OpenAI が誕生し、アメリカの市場は大きなショックを受けたのではないだろうか。Big Tech の独占市場が、いともたやすく崩される可能性があったからだ。大量にデータを保有していない OpenAI が、言語生成 AI を実現した。これは、技術的なパラダイムシフトであった。しかも、その OpenAI が非営利団体を標榜していた。急成長した資本主義経済の中から、価値基準においてすらパラダイムシフトが起こりつつあった。
Big Tech に出来ることは、膨らんだ時価総額と市場の独占状態を維持するための、再投資による計算資源の買い占めと、発展的な研究の独占だった。

米中経済摩擦

アメリカと中国が、AI 全盛の時代を前にして、経済政策として、安全保障政策として、AI を活用することは当然のことだろう。蓄積したデータの活用において、有利な立場にあったのは中国だった。それは、決済に起きたイノベーションで世界が思い知ったわけだが、今回の AI 時代においては、これまでの比では無い影響が懸念される。

参考: DeepSeek は何を変えたのか

「The Internet」を止めて、アメリカとの情報を分断した中国。貿易を止めて、中国の半導体開発を止めたアメリカ。そして今、米中共に、欠けた部分を補うための投資が花開きはじめている。

新たな通貨戦略

新生トランプ政権の動きからは、仮想通貨に対する考えも垣間見える。謎のコインを発行して市場から価値を集めている動きもあり、興味深い。構造や技術的仕様は抜きにして評価を試みれば、流動性を失った金融資産を活用するために没収しているようにも見える。眠ったタンス預金が潤沢にある国もあるが、アメリカが主に中国に滞留していた仮想通貨としての金融資産を吸収しているとしたら、戦略的に仕組まれたものであると思わされる。

既存の金融資産の没収以外で考えれば、外せないのはマイニングだろう。現状、中国はマイニング用半導体(ASIC)を量産できない可能性があり、半導体の成長速度に追随できなくなるリスクを抱えている。一方で、輸出にも制限があるため、販路も限られてしまう。それでもエネルギーさえ潤沢にあれば、自国利用で戦略的優位には立つことができるだろう。
アメリカが、仮想通貨をも用いて新たな国家の通貨基盤強化を図っているとするならば、ここから先はマイニングを取り入れたいはずだ。国家が市場で金塊を購入せず、国家であればこそ、金の鉱山を買うことで資産を保有するように、仮想通貨を組み入れた通貨戦略においても、鉱山の保有が肝になる。要するに、国家は計算資源を保有するのだ。しかし、アメリカはそのための技術を中国に依存してきた弱みがある。
そう考えれば、現状で余剰在庫のある中国と、エネルギーを保有している中国、ロシアには優位性があるのかもしれない。対抗してアメリカは、エネルギー戦略も書き換えてきたわけで、本格的な計算資源の戦いが始まったと言える。
AI 時代のため、というのは当然として、同時に経済・通貨戦略としての計算資源の獲得は各国が考える課題となるだろう。

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