クラウドは、かつて“誰のものでもない”ものだった。あるいは、そう思われていた。
誰かが構築し、誰かが提供しているにもかかわらず、我々はそこに「土地」のような所有意識を持たずに、自由に使い、預け、依存してきた。クラウドは、どこかのサーバーの上にある現実なのに、それがどこにあるかは重要ではなかった。
クラウド、というネーミングの勝利だと思う。
だが、AI があらゆる基盤になり、計算能力資源が新しい資源になったいま、クラウドは再び問われている。このクラウドは、誰のものなのか?誰がそれを所有し、誰がそれを使う権利を持ち、誰がそこにアクセスする権限を握っているのか?
かつて、土地や水やエネルギーがそうであったように、クラウドもまた「公共」と「私有」のあいだで揺れ始めている。
いま、分散型のクラウド基盤とも表現できる、分散型のデータセンターが各地で立ち上がりつつある。それは国が提供するものではないし、特定の企業が独占するべきものでもない。願わくば地域が持ち、学校や病院が使い、市民が参加できる計算能力資源のネットワークが実現するべきだ。それはかつての水道網や発電網のように、社会基盤の一部として機能するようになる。
もちろん、それは非効率かもしれない。コストもかかるし、既存のインフラとの統合も簡単ではない。だが、どこかにある一つの巨大な計算能力空間にすべてを預けることと、各地に小さくても確かな計算能力資源が点在している社会と、どちらが持続可能なのかは、もっと議論されていい。
技術的な意味だけではなく、政治的にも、文化的にも、クラウドには「多様性」が必要だ。それは、計算の自由であり、思想の自由であり、選択肢の自由でもある。
クラウドは誰のものか。それは、使う側が決めるべきだと思っている。クラウドを“使わせてもらうもの”から、“自分たちで持つもの”へと変えていく時期が、そろそろ来ているのかもしれない。
