情報インフラが国家戦略と結びつき、クラウドも AI も地政学の文脈で語られるようになったいま、国家はどの情報網に接続するか、どの計算能力資源の上で社会を動かすかを選ばなければならない時代になった。
多くの国は、その選択肢を Big Tech に委ねてきた。アメリカのクラウドか、中国のクラウドか。どちらかを選ぶというよりは、どちらかに組み込まれるようにして使うという現実だった。欧州の一部では「主権」を意識した構想が立ち上がっているが、それとて依存の再構成でしかない側面もある。
この点は、かつて CERN で議論を重ねて僕自身も実感していたことだ。
そんな中で、僕が考えているのは、「日本」という選択肢の存在だ。
それは、“日本が技術的に優れているから”という意味ではない。計算能力資源や潜在的な電力資源の保有量、ソフトウェアの競争力、どれをとっても、日本は相対的に不利な条件にあるかもしれない。
それでも、日本には明確な価値がある。それは、中立性と透明性、そして信頼という目に見えないレイヤーだ。
法治国家であり、災害耐性が強く、グローバル規模でのデータ利活用に慎重であり、加えて社会的なセキュリティレイヤーが高く保たれている。これは、国家単位での「安心」を支える土台になる。
AI モデルの学習においても、ただ計算すれば良いわけではない。データがどこで処理され、どのような倫理のもとで学習されるかが、将来的な価値に影響を与える時代になってきている。倫理もまた、インフラの一部になった。
そうなったとき、計算能力資源と法制度の“組み合わせ”として日本を選ぶという選択肢が、少なくともひとつの構造的意義を持ち始める。国境を越えた企業や団体、あるいは市民レベルの開発者が、「どこの計算能力空間でプロジェクトを動かすか」を検討するようになったとき、政治的にも文化的にも“許容できる国”として日本が機能すると考えている。
かつて金融の世界で、スイスや NY や香港やシンガポールがそうであったように。特定の分野に於いて、日本は、もっと言えば日本の地方都市は、世界の中心になりえる。日本という選択肢を、世界が求めているのかもしれない。
