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AI による AI のための都市設計

都市とは誰のために設計されるべきか。
これまでその問いに対して、「人間のために」と答えることに、何の違和感もなかった。
だが今、都市を支える最も基本的な機能が、「人」ではなく「計算能力資源」へと置き換わろうとしている。

人が集まるから都市ができるのではない。
AI が機能する場所が、次の都市になる。

その前提に立ったとき、必要な条件はまったく変わる。
災害に強いこと。余剰電力があること。土地の利用に柔軟性があること。空調や排熱、冷却が論理的に扱えること。
それらはどれも、人間の生活のためというより、AI の活動に最適化されたインフラだ。

たとえば、液浸冷却型のエッジデータセンター。
屋外に設置され、内部温度が40度近くに達しても正常に稼働する設計。地下水を循環させることもできるし、太陽光や風力を組み合わせたエネルギー自給もできる。
都市機能の外側でありながら、都市機能の中枢を担う存在になる。

こうした分散型のインフラは、既存の都市構造の文脈から見れば「未開発」とされてきた地域にこそ適している。
空き地だった場所、駐車場としてしか使われなかった土地、建設ができないとされた斜面、あるいは耕作放棄地。
これまで「使い道がない」とされてきた場所が、AI が生きるための最適地になる。

そして、こうした場所に置かれるのは、人間のためのオフィスではなく、AI のための施設だ。
人間が集まる都市ではなく、AI が稼働することで経済を回す都市になる。

都市設計の発想が、変わりつつある。
Elon Musk はすべての駐車場を公園にすると言った。我々は、そこに AI を住まわせたい。

インフラは人間のためだけのものではなく、AI のために組み直される。
それは、AI が人間を最適化するのではなく、AI 自身がどこで最も効率よく稼働できるかを起点に、空間を再設計するという思想だ。

今、都市に必要なのはコンクリートではない。電力と、自律分散の思想だ。

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ワットビット連携

クラウドも、AI も、すべては電気の上に乗っている。計算は抽象的に見えて、その実体はワットだ。GPU を回すにも、ストレージにアクセスするにも、ネットワークを維持するにも、すべては電力を必要とする。
つまり、デジタルの支配権とは、電力の支配権そのものである。

「データの主権」とは、「電力の主権」を獲得することに他ならない。どこの国であっても、企業であっても、次の時代においてインフラ基盤を維持し発展させようとするならば、確保すべきはサーバーでも、ソフトウェアでもない。土地と電気だ。

土地があり、持続的なエネルギーがあり、災害に強い地域。そこにこそ、次世代のデータと AI の基盤が築かれる。
結果、インターネットの構造はすでに“中央”ではなく、“多極分散”に向かっている。拠点の数と、そこに流れ込む電力の信頼性こそが、競争力とされる時代になる。

今までは「電気を売ること」が再生可能エネルギー事業の出口だった。必要な電力総量は増すものの、電力消費の形は従来型の重工業主体では無くなりつつある。だがこれからは、「電力を効率よく計算に使うこと」が電力の出口になっていく。

電力の地産地消とは、もはやライフスタイルの話ではなく、インフラの独立性を守る地域の戦略になるべきだろう。これから先に問われるのは「土地にどれだけの電力を安定的に供給できるか」になる。
だからこそ、「ワットとビット連携」が問われている。そして、そこに残された可能性が、日本の地方には、まだある。

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世界に輸出された日本のハイコンテクスト表現

言葉ではなく、構造や演出そのものが“意味”を持つ時代になった。

日本の文化はもともと、ハイコンテクストな構造を持っている。説明しすぎない。行間に置く。背景に含める。
そうした表現はすでに日本国内に止まらず、そのままの形で“記号”として世界に輸出されている例がある。しかも、それが他国の文化や表現様式と交わることで、新しい文法を作り出している。

その中でも特に定着しつつある「慣用句的演出表現」に関しては、今後その名前を定義し、定着させてほしいと願っている。

金田スライド
アニメ「AKIRA」の中で、金田がバイクでスライド停止するあの名シーン。赤いバイクが地面を滑るように止まり、その摩擦と同時に空気が引き締まる。
「アニメでバイクをかっこよく止める=金田スライド」という一種の記号化。それが視覚言語としてグローバルに通用するようになっている。

素子の自由落下
「攻殻機動隊」で、草薙素子が高層ビルから飛び降りるシーン。
静かな重力。無音の落下。カメラワークのゆるやかな回転。サイバーパンク的な映像作品において、定番の演出になっている。
派手さのない落下が、逆に緊張感を生む。数十年経った今も、映像作品の空気感を定義し続けている。

板野サーカス
「超時空要塞マクロス」などに登場した、板野一郎氏による超立体的ミサイル演出。
発射されたミサイルが空中を複雑に軌跡を描きながら飛び、残像とスモークと爆発の演出が同時に空間を設計する。
このスタイルは、空中戦における「絵の描き方」の世界標準ではないだろうか。もはや人名を超えて、表現形式そのもののメタファーになったような存在感がある。

これらの演出に共通しているのは、文字ではなく、動きや構図そのものが語彙になっているという点だ。
言語を介さず、シンボルや運動の記憶によって「通じてしまう」表現。日本のハイコンテクスト文化が、翻訳ではなく直接“輸出”された証のようにも思える。

これからも、こういった演出の定着と交差を観測していきたい。
それは、文化の拡張の記録でもあり、新しい時代の“語彙”の誕生を目撃する作業でもある。

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Waymo 東京上陸

肉眼で確認。

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正しくは「AI が人を使う」である

AI によって社会全体が豊かになる。そう信じてきた。だが最近、それと同時に、認識のズレがもたらす“すれ違いの不幸”も生まれつつあると感じている。

ここでいう“不幸”は、AI の恩恵を受ける側からの勝手な解釈だということを最初に補足しておきたい。実際には誰も被害者ではなく、ただ、AI に関与する人間の側がそう“感じている”だけかもしれない。

2025年5月の時点で、AI に対する理解が広がってきた一方で、それを完全に放棄しているように見える人も一定数存在することを強く実感した出来事があった。しかも、それは一般利用者ではなく、社会の方向性を担うような立場の人たちの中に存在していた。観測範囲を広げれば、あるいはそれが過半数なのかもしれない。

たとえば、「AI はまだ精度が低い」と決めつけている人がいる。だがそれは、AI に対する期待の解像度があまりにも粗いために生まれた誤解だと思っている。AI にすべてを丸投げする前提で考えれば、「何もできない」と感じるだろう。しかし、社会における多くの行動単位(モジュール)は、AI に任せたほうが人間よりも高精度に実行できる。

また、「指示を与える」という思考そのものを持っていない人もいる。AI に対して明確なインプットを行えば、成果がまったく違ってくることを経験していないのだろう。人間同士なら「これやっといて」という曖昧な指示でも、文化的共通理解の中である程度通じてしまう。しかし、AI にはそれが通用しない。曖昧な指示に対して「使えない」と判断してしまうのは、相手が AI だからではなく、自分の側のインターフェース設計の問題だ。

加えて、日本語圏や日本のデジタルインフラだけを基準に AI の性能を測っていると、極端な見誤りが生じる。いわゆる“ガラパゴス”的な前提を持ったまま、世界標準の変化を感じ取ることは難しい。

しかし、最も驚いたのは「AI を人間が使う」という発想の人に多く触れたことであった。「みんなが AI を使えば社会が変わる」という期待には、ある種のズレを感じる。

たとえば、いまの社会で人が目的地に移動するときのプロセスはこうだ。

  1. 目的地を定める
  2. 地図アプリで検索する
  3. 移動手段を選ぶ
  4. 経路を把握して準備する
  5. ナビに従って移動する

ここに AI を導入すると、プロセスは次のように変わる。

  1. 移動の目的を AI に伝える
  2. 提案された手段を選ぶ
  3. ナビに従って移動する

これが「人が AI を使う」社会の設計だ。

だが、次の社会は「AI が人を使う」前提で設計されるべきであり、そのとき、プロセスはこうなる。

  1. 目的が達成されている

移動するという意識すらなく、必要があれば移動が発生し、結果として目的が達成されてしまう。自動運転、遠隔通信、映像技術、情報の受け取り方の設計などによって、移動そのものが不要になるかもしれないし、あるいは、AI が提示するインプットの形そのものが、我々の判断や行動を先導するかもしれない。

そんな未来は少し遠いかもしれない。だが近い将来、たとえば「この店に行きたい」と思って検索して、経路を調べて向かうという体験すら、必要なくなる可能性がある。移動に関する煩わしさは、AI によって取り除かれる。運行管理も、交通整備も、車そのものの開発も、すべて AI をベースに再構築されていく。
そのとき、一般の人々は「AI を使っている」という認識は持たないだろう。ただ、生活が便利になった、昔はどうやってたんだろう、という感覚だけが残る。スマートフォンが当たり前になった我々がそうであるように。

AI による最適化は、社会インフラに一気に浸透する。そしてその最適化プロセスに関わる人間の数は、ごくわずかだ。従来の取り組みとは比較にならないスピードと再設計が進む。産業構造そのものが変わり、変化に関わる人はごく少数。大多数は恩恵を受ける側に回る。そして、変化したことに気づくのは、ずっと後になる。

「人が AI を使う」という発想は、もう不十分かもしれない。これからの意思決定は、「AI が人間をどう使うか」を前提に設計すべきなのではないか。

そして、AI を推進し、拡大に貢献するような立場にある自分自身もまた、その方向性に思考をチューニングされ、恩恵を受け続けることで、その意思をより強くしている。

それは本当に「自分の意思」なのか?
そう、自問自答した。

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本当に伝えたかったこと

日本文化には、辞世の句というものがある。
だが現代人の我々からすれば、解説がなければその意図を汲み取るのは難しい。

俳句はもともとハイコンテキストな形式だ。さらに、辞世の句ともなれば、詠み手の時代背景や人生まで含めて理解しておく必要がある。だから、解説が必要だ。

しかし、本当に詠んだ人は解説が必要だとまで思っていたのだろうか。言わずとも、教養さえあれば伝わると、信じていたのではないか。

少し前に、話が通じていなかったことに気づく出来事があった。
何年も、何度も話していたつもりだったのに、ある瞬間に「今やっとわかった。こういうことだったのか?」と問い返された。その理解は正しかった。だが同時に、そこに至るまでの間、その大前提がまったく伝わっていなかったという事実に衝撃を受けた。

こちらとしては当然、すでに共有されていると思っていた。それを前提に、さらに複雑な話をしているつもりだった。でも、そもそもスタート地点が共有されていなかったのだ。

そのとき、はっとした。これは今回だけではなく、他にも多くの言葉が、同じように伝わっていなかったのではないか。理解されたと思い込んでいただけで、本当は多くの人に何も届いていなかったのではないか。

伝え方が悪かったのだろう。結果が得られていない以上、責任は発信側にある。
でも、そもそも「伝えるべきこと」だったのだろうか。伝えなければいけないという思い込みの中で、誰も求めていないことを一方的に語っていただけかもしれない。

何かをすべて伝え、すべての理解を得る必要があるとは思っていない。むしろ、それは不可能に近い。なにかを伝承したいわけでもない。
行動と結果があって、その手段として情報の伝達がある。伝えることは手段であって、それ自体が目的になるべきではない。

モニターの解像度を無視して GPU がどれだけ美しい映像を描画しても、意味がない。出力の限界を決めるのは、モニター側=自分自身である。つまりは、自分の表現解像度をあげなければならなかったのだ。

今回の件では、たまたま「時流」が背景にあった。痛みの感覚を伴う具体的な事例が、受け手に多方面からの情報として同時に流れ込んだ。だからこそ、これまでとまったく同じ内容を改めて伝えただけで、驚くほどスムーズに意図が通じた。

受け手の目が開いていた。焦点が合っていた。そういう“タイミング”が整っていた。その上で、きちんと理由が明確になっているときに、適切な解像度の映像を描写するだけでよかったのだ。この状況を正しく読み切る力がなければ、それは決してできない。

そしてもう一つ。僕の話には、明確な「行動」や「結果」を求める意図がなかったのかもしれない。正確に言えば、ただひとつだけ目的があった。

「チ。地球の運動について」の中で、それ何の話ですかと聞かれたヨレンタがこう言った。

わからない?私の感動を、必死に伝えている。

そう、これまではただ、感動を伝えること。それが自分のやるべきことだと思っていたし、それがすべてだった。
感動が伝わらなければ、人は動かない。社会は耳を貸さない。だから、それが無駄だったとは思わない。でも、それだけでは何も始まらないことも、ようやく分かった。
だから、伝え方を変えようと思った。

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設計の美しさと実行の難しさ

完璧な設計を思い描くことと、それをそのままの形で実装することの間には、大きな距離がある。
とくにハードウェアやソフトウェアのように、多くの人が関与するプロジェクトでは、想定通りに物事が進まないことなど日常のように起きる。前提条件は変わり、環境は変化し、予期せぬ要素が必ず入り込んでくる。

Big Things という本がある。そこに、そんな困難の中でも大成功をおさめた巨大建築プロジェクトが紹介されていた。そこで得られた教訓として、特に印象に残っているのが次の二点だった。

  1. 丁寧に設計する
  2. 高速で実行する

完成までに時間がかかればかかるほど、変数の値は変わっていく。
だからこそ、設計は慎重に、そして実装は迷わず速く進める必要がある。前提条件の変化に巻き込まれる前に、コアの構造を一気に形にしてしまう。
そのために、モジュール化し、できる限り変化の少ない単位で取り組むという方針が示されていた。

昨日、京都の街を歩いていたとき、そのことをふと思い出した。
通りの名前が交錯する場所を組み合わせて、行き先を伝える文化がある。
タクシーで場所を伝えるとき、「○○通と△△通の角」と言えば、地元の人はすぐに二次元平面上の座標として理解してくれる。まるで、そこに住む人々を含めた都市全体にプロトコルが埋め込まれているかのような感覚だった。

それが可能なのは、都市の設計がうまくされていたからだと思う。
ハードウェア設計よりも遥かに複雑で、関係者も世代も多く、しかも完了しないプロジェクトである都市計画において、あれだけの構造が保たれていることに驚いた。完全に意図通りだったとは思わないが、後からの変更や変動を吸収できるような設計がなされていたのかもしれないし、あるいはコアとなる思想が今なお受け継がれているだけなのかもしれない。

京都のような都市設計は、超高速で実行されるものではない。
むしろ、最も重要な基礎部分は、思想を支える設計として最初に一気に決まり、その後の実装段階では現場の判断に左右されないような仕掛けがあったのではないか。
信条に近い価値観が共有され、設計の意図を現場で引き継がせるための内発的動機付けが文化として根づいていたのかもしれない。

都市そのものについてはそれ以上考えるのをやめたが、設計と実装、その理想的な関係については、改めて深く考え直した。

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京都鴨川 Starbucks

京都出張の合間に。

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データ過払い

ここ20年ほどのあいだ、我々は「タダで使えるインターネット」に慣れすぎてしまった。検索も SNS もメールも地図も翻訳も、すべてが無料だった。あるいは、無料のように感じられていた。

だが、実際には何も無料ではなかった。

我々は、現金ではなく、データで支払っていた。名前、趣味、位置情報、購買履歴、睡眠時間、交友関係、顔写真。それらすべてが、ビジネスモデルを支える“対価”として提供されてきた。

問題は、その支払いが必要以上だったということだ。

本当に地図を使うのに、家族構成まで渡す必要があったのか。翻訳アプリを使うのに、位置情報の履歴が必要だったのか。誰がどこまでの情報を要求していたのか、その正当性を我々は検証できていなかった。

それどころか、何を渡したのかすら覚えていない。

これは、いずれ「データ過払い」として社会問題化する可能性がある。

データの過払いは、ある日突然の被害ではない。数年、数十年かけて、じわじわと蓄積されてきた結果だ。気づいたときには、もう手放したものが何かさえ分からなくなっている。

だが、AI の時代に入り、この構造にも少しずつ変化が見えてきた。個人のデータを“使わせる”側に立つ仕組み、つまりモデルの学習において、誰がどう関与し、どこで記録され、どう透明化されるかという問いが立ち上がりつつある。

もしも我々が、自分のデータがどこで使われているかを知り、その使われ方を選べるようになったとしたら。もしも我々が、提供しすぎた過去の情報について「取り消す」権利を持てるようになったとしたら。そのとき、データという存在の経済的意味も、法的意味も、倫理的意味も、大きく再定義されることになるだろう。

データは「使わせるもの」であり、「売り渡すもの」ではない。データは誰かの所有物である。この視点が広がれば、過去20年にわたって積み上がってきた“過払い状態”の是正が、ようやく始まるかもしれない。

我々は、そろそろ自分のデータを自分のものとして扱い直す時期に来ている。

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プライバシー保護と AI の両立

クラウドは便利だ。だが、何もかもをクラウドに預けることに、誰もが少しずつ違和感を覚え始めている。

情報が蓄積され、使われ、結びつき、予測される。私たちの行動や感情、嗜好や関係性までが、見えない場所で計算されている。そのことに対する違和感は、もはや一部のリテラシー層だけのものではない。

では、この世界において、プライバシーを守るためにできることは何か。そのひとつの解が、「AI をクラウドから下ろすこと」ではないかと思っている。

いま、Apple の戦略に象徴されるように、AI はクラウドではなく、デバイスそのものに“住む”方向に進んでいる。iPhone の中で、Mac の中で、AI は自分のことを知り、自分のことを処理し、そして外に出ていかない。

計算性能のあるデバイスと、情報を手元に保持するという思想が結びつくことで、利便性よりも信頼性を重視する「クラウドよりも安全な AI」という構造が成立する。

この流れの中で、「どこで AI が動いているのか」という問いは、単なる技術選択ではなく、「誰がその情報を持つか」「誰がそれを見ないか」という政治的・倫理的な問いになる。

そしてここに、いま新たなアーキテクチャの余地が生まれている。
個人が自分のデータを握り、自分のデバイスでモデルを動かす。そういうローカル AI の構造は、クラウドの巨大集積とはまったく異なるリスク構造と信頼の設計を持つ。

クラウドがもはや“気持ち悪い”と感じられるようになったこの時代において、AI をどう動かすかは、「どこで計算され、誰のために動くのか」を問うことになる。

プライバシーを守るとは、個人情報を AI が使わないように制限することではない。使えるようにしつつ、渡さないという設計が必要だ。
AI の進化とプライバシー保護は、両立する。ただし、それはクラウドの中ではなく、ローカルの、エッジの再発見によって実現する。

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