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世界に輸出された日本のハイコンテクスト表現

言葉ではなく、構造や演出そのものが“意味”を持つ時代になった。

日本の文化はもともと、ハイコンテクストな構造を持っている。説明しすぎない。行間に置く。背景に含める。
そうした表現はすでに日本国内に止まらず、そのままの形で“記号”として世界に輸出されている例がある。しかも、それが他国の文化や表現様式と交わることで、新しい文法を作り出している。

その中でも特に定着しつつある「慣用句的演出表現」に関しては、今後その名前を定義し、定着させてほしいと願っている。

金田スライド
アニメ「AKIRA」の中で、金田がバイクでスライド停止するあの名シーン。赤いバイクが地面を滑るように止まり、その摩擦と同時に空気が引き締まる。
「アニメでバイクをかっこよく止める=金田スライド」という一種の記号化。それが視覚言語としてグローバルに通用するようになっている。

素子の自由落下
「攻殻機動隊」で、草薙素子が高層ビルから飛び降りるシーン。
静かな重力。無音の落下。カメラワークのゆるやかな回転。サイバーパンク的な映像作品において、定番の演出になっている。
派手さのない落下が、逆に緊張感を生む。数十年経った今も、映像作品の空気感を定義し続けている。

板野サーカス
「超時空要塞マクロス」などに登場した、板野一郎氏による超立体的ミサイル演出。
発射されたミサイルが空中を複雑に軌跡を描きながら飛び、残像とスモークと爆発の演出が同時に空間を設計する。
このスタイルは、空中戦における「絵の描き方」の世界標準ではないだろうか。もはや人名を超えて、表現形式そのもののメタファーになったような存在感がある。

これらの演出に共通しているのは、文字ではなく、動きや構図そのものが語彙になっているという点だ。
言語を介さず、シンボルや運動の記憶によって「通じてしまう」表現。日本のハイコンテクスト文化が、翻訳ではなく直接“輸出”された証のようにも思える。

これからも、こういった演出の定着と交差を観測していきたい。
それは、文化の拡張の記録でもあり、新しい時代の“語彙”の誕生を目撃する作業でもある。

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雑記

本当に伝えたかったこと

日本文化には、辞世の句というものがある。
だが現代人の我々からすれば、解説がなければその意図を汲み取るのは難しい。

俳句はもともとハイコンテキストな形式だ。さらに、辞世の句ともなれば、詠み手の時代背景や人生まで含めて理解しておく必要がある。だから、解説が必要だ。

しかし、本当に詠んだ人は解説が必要だとまで思っていたのだろうか。言わずとも、教養さえあれば伝わると、信じていたのではないか。

少し前に、話が通じていなかったことに気づく出来事があった。
何年も、何度も話していたつもりだったのに、ある瞬間に「今やっとわかった。こういうことだったのか?」と問い返された。その理解は正しかった。だが同時に、そこに至るまでの間、その大前提がまったく伝わっていなかったという事実に衝撃を受けた。

こちらとしては当然、すでに共有されていると思っていた。それを前提に、さらに複雑な話をしているつもりだった。でも、そもそもスタート地点が共有されていなかったのだ。

そのとき、はっとした。これは今回だけではなく、他にも多くの言葉が、同じように伝わっていなかったのではないか。理解されたと思い込んでいただけで、本当は多くの人に何も届いていなかったのではないか。

伝え方が悪かったのだろう。結果が得られていない以上、責任は発信側にある。
でも、そもそも「伝えるべきこと」だったのだろうか。伝えなければいけないという思い込みの中で、誰も求めていないことを一方的に語っていただけかもしれない。

何かをすべて伝え、すべての理解を得る必要があるとは思っていない。むしろ、それは不可能に近い。なにかを伝承したいわけでもない。
行動と結果があって、その手段として情報の伝達がある。伝えることは手段であって、それ自体が目的になるべきではない。

モニターの解像度を無視して GPU がどれだけ美しい映像を描画しても、意味がない。出力の限界を決めるのは、モニター側=自分自身である。つまりは、自分の表現解像度をあげなければならなかったのだ。

今回の件では、たまたま「時流」が背景にあった。痛みの感覚を伴う具体的な事例が、受け手に多方面からの情報として同時に流れ込んだ。だからこそ、これまでとまったく同じ内容を改めて伝えただけで、驚くほどスムーズに意図が通じた。

受け手の目が開いていた。焦点が合っていた。そういう“タイミング”が整っていた。その上で、きちんと理由が明確になっているときに、適切な解像度の映像を描写するだけでよかったのだ。この状況を正しく読み切る力がなければ、それは決してできない。

そしてもう一つ。僕の話には、明確な「行動」や「結果」を求める意図がなかったのかもしれない。正確に言えば、ただひとつだけ目的があった。

「チ。地球の運動について」の中で、それ何の話ですかと聞かれたヨレンタがこう言った。

わからない?私の感動を、必死に伝えている。

そう、これまではただ、感動を伝えること。それが自分のやるべきことだと思っていたし、それがすべてだった。
感動が伝わらなければ、人は動かない。社会は耳を貸さない。だから、それが無駄だったとは思わない。でも、それだけでは何も始まらないことも、ようやく分かった。
だから、伝え方を変えようと思った。

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働くことの大切さ

今更すぎますが、最近になってようやく、未来少年コナンを見ました。古いアニメですが、大変質が高くて、今まで見ていなかったことを後悔しています。
古いからこそ、今の時代とのギャップで気付かされたことがありました。

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コンテンツを消費する能力の欠如

ショッキングなことに気付いたのです。僕は、どうやらコンテンツを消費する能力が欠如しているようです。理解力が低いのか、忍耐力が低いのか、視野が狭いのか、何がどう問題なのかまだわかっていませんが、消費できるフォーマットがかなり限られていることを今更ながら知りました。

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スーパーカブを観て考える環境負荷と人間の傲慢さ

アニメ「スーパーカブ」は時々話題になっています。あまりにも平坦なストレスの少ない趣味全開の作品で、疲れた現代人にとって何よりの癒しとして機能するアニメとしてです。
予想外に Twitter 警察に交通ルールを突っ込まれて炎上をしていましたが、普通に観ている分には精神安定剤みたいな作品になっています。

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鬼滅の刃が注目を浴びた理由

作品のヒットの理由なてわかるわけがないし、後付ならなんとでも言えます。よって、こういう理由で鬼滅の刃がヒットしたとか、どんなマーケティング上の戦略があったのか、などを述べるつもりはありません。そんなものがわかっているのなら、その分析能力、予測能力をもっと有効に別の方向に使っていることでしょう。

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今の NFT 市場に圧倒的に足りないもの

NFT の市場規模はうなぎのぼりで、DeFi と共に基盤であるブロックチェーンの価値を向上させるレベルで拡大を続けています。
具体的には、Ethereum が重要性をさらに増す方向性に力が働いており、これが待ち望まれていたキラーアプリ、キラーコンテンツの一部になると期待されています。

そんな NFT のトークン売買市場に流れている資金量や売買のトランザクションの数、あるいは保有されている数はどのような水準に達しているのだろうと、調べていて気づいたことがあります。それが、今の NFT に圧倒的に足りないものです。

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クリエイターへの憧れ

なぜ自分は、アニメ業界に進むことを諦めたのだろうかと自問するときが未だにあります。なぜ、ゲームクリエイターを目指さなかったのだろう、なぜ、音楽を途中でやめたのだろう、とも。

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興味の範囲が狭まる恐怖と多様性の中での生存戦略

音楽にスポーツ、お笑い。以前は興味があったものに対して、まったく関心を示さなくなりました。この10年ぐらいの変化は特に激しく、興味が落ちているというレベルではなく、無くなってしまったと認識できるほどです。先に挙げた中であれば、耳をふさぐための目的に、Spotify のアルゴリズムがすすめるプレイリストを再生するぐらいしか触れていません。

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アニメ監督のマネジメントスタイル

マネジメントというのは奥が深く、ゴールや業界によって方法は全くことなります。人類は組織化して文明を発展させたわけですが、農業の発見以降に本格化し拡大したマネジメントの概念は、まだまだ分裂と進化を遂げている最中に思えます。

僕は人に関しては、マネジメントと呼ばれるものは得意な方ではありません。しかし同じように人と関わることや人をマネジメントすることが苦手に見受けられる人物であっても、業界によってはそれを補完する仕組みができていて、うまく成果につながっている場合があると常々思っていました。その代表的な業界が、アニメ業界です。

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