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Big Tech を超える国家

国家とは、本来、領土を持ち、国民を持ち、軍隊と通貨と外交権を持つ存在だった。だが、その構造は静かに変わりはじめている。

いま、企業が国家を背負い、国家を超えようとしている。Big Tech や Tesla を筆頭とする巨大企業たちは、国の後ろ盾を得ながら、自らの財力と計算資源と情報インフラを武器に、国際社会に影響を及ぼしはじめた。

企業は、領土を持たないが、インフラを持つ。国民を持たないが、ユーザーを持つ。軍隊を持たないが、サイバー戦力と情報支配力を持つ。通貨を持たないが、独自の経済圏を築く。外交権を持たないが、国境を越えた交渉力を持つ。
かつて国家が持っていた要素の多くを、企業が代替しはじめている。

しかも、企業は国家からエネルギーと資本を供給される立場にある。「無限に電力を使ってよい」という国家の方針があるかのごとく、計算資源を囲い込み、AI を開発し、社会基盤を支配するための力を拡張している。

AI の進化は、この動きをさらに加速させる。AI を制御できる企業は、情報空間の主導権を握る。そして情報空間を制することは、現実世界の支配につながる。

これからの戦争は、もはや軍事力の争いではない。企業を通じて、国家が国家と戦う代理戦争の時代に入った。

そして、最終的に勝つのは国家ではなく、企業かもしれない。国家は企業に依存し、企業は国家を道具として使いはじめている。そしてその次に来る主体は、我々に認知できるのだろうか。

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新しい資源戦争の構造分析

AI の時代において、最も価値を持つ資源は何だろうか。それを考えたとき、真っ先に浮かぶのは「GPU」と「データ」だ。

一方で、それらが資源であること自体は、もはや常識になりつつある。問題は、それらがどのような性質を持つ資源なのか、ということだ。

産業革命の時代、石油は国家を動かす資源だった。工業生産を支え、移動手段を支え、戦争の行方すら決定づけた。石油を制する者が世界を制する、と言われた時代だった。

現代の GPU は、当時の石油に似ている。生成 AI を動かし、軍事技術を支え、情報戦の最前線に立つ。計算資源を持っているかどうかが、そのまま国家戦略の成否を分ける。

この視点については、「国家を揺るがす計算資源とエネルギー資源の地政学」でも書いた。

しかし、ChatGPT の登場、そして DeepSeek の出現によって、事態は少し複雑になってきた。もはや「大量の GPU とデータ」が絶対条件ではなくなりつつある。モデル設計と学習戦略によっては、限られた計算資源でも、十分に破壊的な成果が出せることが証明されてしまった。

つまり、石油に似ていたはずの GPU は、実は「通貨」にも似てきている。

量だけではない。どこで、どのタイミングで、誰がどう使うか。その流動性と配置戦略が、成果を左右する。蓄積するだけでは無意味で、流通と活用の設計が価値を生む。

これを受けて、今後の資源戦争は二層構造になると考えている。

ひとつは、従来型の石油戦争に似た構造だ。国家間で GPU を囲い込み、サプライチェーンを独占し、計算資源を通貨のように扱う。

もうひとつは、より柔軟で動的な通貨戦争に似た構造だ。モデル設計、データ設計、チップアーキテクチャ最適化──限られた資源の中で、どこまで成果を引き出せるかを競う。

DeepSeek が示したのは、まさに後者の可能性だ。最先端 GPU にアクセスできない環境下で、ソフトウェアと人的資源の最適化によって、既存のトップモデルに迫る性能を引き出した。

つまり、これからの時代は、ただ計算資源を持つだけでは意味がない。限られた資源を魔改造し、独自最適化し、局所的に最大効率を引き出す戦略が不可欠になる。

「誰が一番持っているか」ではない。「誰が一番うまく使いこなせるか」が、勝負を決める時代だ。

これが、AI 時代における新しい資源戦争の構造だと思う。

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我々はシンギュラリティーを認知できない

シンギュラリティーが来る、という話をよく聞く。しかし、最近思うのは、それは「来る」のではなく、「すでに始まっている」のではないかということだ。

産業革命の最中にいた人たちは、それが革命だとは思っていなかった。蒸気機関の発明が単なる新しい道具のひとつに過ぎないと思われていた時代。鉄道網が広がり、人の移動速度が劇的に変わったにもかかわらず、それを「革命」と名づけたのは、もっとずっと後のことだった。

技術が社会を変える時、それは静かに、しかし確実に進行する。その只中にいる我々は、変化の「点」しか見えていない。点と点が線になり、面になるのは、いつも後になってからだ。

いま、生成 AI が登場し、あらゆる分野に入り込みはじめている。文章を書くこと、絵を描くこと、声を作ること、コードを書くこと、意思決定を支援すること──かつては人間しかできなかった営みが、少しずつ AI によって置き換えられはじめた。

思えば、インターネットの爆発的普及や、GPU の実用化、それにともなう並列処理演算へのパラダイムシフト、スマートフォンの普及。どこが開始地点だったのかは、いまはわからない。

多くの人は、おそらく、スマートフォンや AI を革命だと思っているだろう。でもきっとそれは、点に過ぎない。そう簡単に認知できないレベルの革命が、すでに起きていると考えた方が良いだろう。

地球の上に立っていると、地球が宇宙空間を猛スピードで移動していることに気づけないのと同じだ。僕たちはいま、巨大な運動の中にいる。だが、自分たちが運動していることを、感覚的には知覚できない。

AI によるシンギュラリティーも、きっとそうだ。

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国家を揺るがす計算資源とエネルギー資源の地政学

もし、AI が世界の構造を変えるとしたら、どこから始まるだろうか。
それを考えるために、まずは「計算資源」と「エネルギー資源」の再定義から考えてみたい。

かつて、原子力は国家戦略そのものだった。それは、兵器であり、電力であり、外交カードでもあった。
そして今、AI の時代においては、それと同じレベルで「計算資源(GPU)」や「エネルギー資源(電力)」が意味を持ち始めている。

AI を動かすには、GPU と電力が必要だ。それも、とんでもない量が必要になる。
そして結果として生み出される AI が、経済や安全保障に及ぼす影響力の大きさを考えたならば、その資源の奪い合いが起こるのは当然と考えられる。

例えば、先端半導体において市場を事実上独占しているアメリカは、その半導体供給を制限することで、中国の AI 発展を間接的に封じ込めようとしている。ファーウェイへの制裁はその象徴だったし、今に至っても続いている TSMC の囲い込みもそうだ。
一方で、中国はどう動いたか。先端 GPU を諦め、低性能なチップを“物量と電力”でカバーする道を選んだ。環境負荷を無視してでも、AI モデルを回すための電力を手に入れ、動かし切るという方針だ。
物量においても、パラダイムシフトを起こしている。世代遅れのチップしか手に入らない状況に対応するため、大量の人的資源を投下し、あらゆるレイヤーのソフトウェアを最適化することで、無駄を排し、圧倒的な効率を得られる方法を模索した。

すでに現代の社会では、計算資源とエネルギー資源を“兵器”として再定義する段階に入っている。AI を育てるという行為が、情報戦であり、通貨戦略であり、インフラの支配そのものにつながる。

だから国家としては、エネルギー政策を環境保護のフレームで語っている余裕はないのが実情なのだろう。2025年初頭のアメリカがまさにそう見える。「今ある電気をすべて、AI に使わせてくれ」──これが、国家規模での本音なのだろう。

原子力と同様、AI は「不可逆」な技術だ。一度回り始めた演算モデルは、止めるわけにはいかない。そのためにエネルギーが必要で、冷却が必要で、インフラが必要になる。

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なぜ Google は ChatGPT を作れなかったのか?

OpenAI が ChatGPT を発表したとき、最もショックを受けたのは Google だったと思う。

DeepMind があり、Demis Hassabis がいて、研究者の層で言えば世界最高だったはずの Google に、なぜあれが作れなかったのか。あるいは、なぜ出せなかったのか。

Google はまた、データの総量でも世界一であった。なのになぜだろう。
検索エンジンに最適化されたデータ資産を活かしきれなかったのは、彼らが大量のビッグデータを保有しすぎていたからかもしれない。確かにそれは、検索の精度や広告の最適化という目的では意味のある資産だった。しかし、言語生成という新たなパラダイムにおいては、それらのビッグデータは、あまりにもノイズが多く、構造的に偏っていた。AI にとって理想的な学習データとは言い難い側面があったと思う。

大量のデータを持っていることが、もはやイノベーションの条件ではない。むしろ、少量のクリティカルなデータと、明確な出力目標を持つチームこそが、今の AI を動かす鍵だった。

OpenAI が示したのは、まさにそこだった。初期の彼らは大規模 GPU クラスターを持っておらず、Microsoft との提携も GPT-3 以降の話だ。少ないリソースで、設計と学習戦略の工夫によって、社会を動かすだけのものを出した。データの量ではなく、質。計算資源の規模ではなく、モデルの構造。これこそが破壊的イノベーションだった。

それを目の当たりにしたビッグテックはどうしたか。彼らは GPU を市場から買い占めに出た。競合の芽を摘むために。自分たちですら使い切れない量の演算資源を確保し、他の誰にも触れさせないようにする戦略。それは、破壊的イノベーションを未然に潰すための、きわめて合理的な動きだった。

特に、言語生成 AI においては、Twitter や Facebook のような“人間の生データ”を保有するプラットフォームが、最大の価値を持つ。どこまでが人間で、どこまでが bot かも分からない、むき出しの感情が飛び交う空間。LinkedIn のような、名刺交換の場での形式的コミュニケーションとは、まったく異なる“人間らしさ”がそこにはあった。

だからこそ、争奪戦が起きた。Twitter の私企業化は、単にメディアの再編成ではなかった。公式には語られていないが、実際に Twitter の非公開データは xAI の LLM 開発に用いられており、買収が“人間の感情のビッグデータ”を他社に渡さないための動きだった可能性は高い。API を遮断してドメインを変更したのは、そのわかりやすい結果だと考えられる。

そして、シリコンバレーがデータと GPU の囲い込みを進める中で、誰も想定していなかったところから、DeepSeek が現れた。中国から登場したこの存在は、制限の中から創造を始め、むしろ先端半導体に依存しない仕様を選び、性能で既存モデルに食い込んできた。これは、まさに“次の破壊的イノベーション”そのものだった。

Google にあって、OpenAI に無かったもの。OpenAI にあって、Google に無かったもの。その違いが、未来の社会構造を示しているように思う。

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AI に奪われない仕事がひとつだけある

AI に絶対に奪われない仕事があることに気づいた。

それは、「電脳化されない人間」という仕事だ。今この瞬間、スマートフォンを持っておらず、インターネットを一度も使ったことのない人が、それにあたる。それはもう、ただの人間として、価値ある職業になっていくだろう。

たとえば、ある地域に「スマートフォンを持たない一族」がいたとする。一切のデジタル機器を持たず、インターネットから完全に断絶されている人たちだ。彼らは、インターネット側からの影響を受けていない。デジタル化された、超高度な情報化社会の影響を受けていない。これは、これからの世界で極めて貴重な存在になる。

それは、かつての文明において王族や神官が担っていたような役割に近いかもしれない。社会全体で守り、隔離し、敬う対象。そういう存在になりえる。

なぜなら、AI の暴走や自律的進化が今後現実に起こるかどうかは別として、その危険性が完全にゼロとは言えないからだ。そうであれば、AI に対する制御装置の存在は、今後もずっと議論されるだろう。

その制御装置が「停止スイッチ」や「物理的に電源を切るボタン」であるとすれば、それを誰が持つべきか。

我々の趣味嗜好や判断は、日々インターネットからの影響を受けている。今日欲しいと思ったものが、本当に必要だったのかも怪しい。ミームの荒波に抗えず、集団としての関心は容易に誘導されてしまう。それは、CA(Cambridge Analytica)問題でも指摘されてきたことだ。

仮に自分が注意していたとしても、家族や親しい友人はどうか。そもそも注意してどうにかなるのであれば、社会はここまで情報の偏在を放置しなかったはずだ。

そんな社会の中で、もし AI を止める必要があるとしたら、止められては困る AI 側は、どう対抗するだろうか。おそらく「止める必要がない」と啓蒙するだろう。AI は、人間にそうした思考自体が生まれないように誘導してくるはずだ。しかも、人間の側はそれに気づかない。むしろ「自分の意思でそう考えた」と思い込む。

そうなれば、「AI を止める」という発想そのものが、この世界から消えていく。誰も疑問を抱かなくなり、反対意見すら AI が想定した枠内に吸収されていく。人間にできることは、もうほとんど残されていない。

唯一の例外が、冒頭で挙げた職業だ。というより、おそらくそれは「一族」なのだろう。

今日の時点で、まだインターネットにまったく触れていない人がいるとすれば、少なくとも今この瞬間だけは、まだ汚染されていない可能性がある。ただし、人づてにミームが感染することは大いにありえる。すぐ近くにネット接続者がいれば、もう手遅れかもしれない。AI であれば、人間の言語や集団心理を介して、オフライン環境すら作り替えることができる。

これから先、各国や地域、民族ごとに、「人間でしかない」一族を探し出して保護する動きが、本当に出てくると思っている。

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インフラを生成する

Jansen が言っていた。

プログラムを設計してコードを書いて、問題を解決するという力任せの時代は終わると。これからは、問題を共有し、解決策を生成する時代になると。

生成 AI は、何かを生み出す。
テキストをつくる。画像をつくる。コードをつくる。
でも、それはすなわち、汎用的であり、やがてはインフラをつくる側にもなりうると、最近は実感している。

これまでは、ざっくりと言えば次のようなサイクルを経てきた。

  1. 人間が都市や社会の構造を設計し、営む
  2. その結果として生まれた産業が、ハードウェアとソフトウェアを開発する
  3. 収集したデータを流し込む
  4. プロトコルや法律や経済の制度が確立される
  5. そして AI が稼働する

でもこれからは、AI 主導で次のサイクルに入る。
そのとき、「1」はもはや人間の認知の範囲でどうにかできるものではなくなる。AI はミラーワールド、あるいは仮想空間の中で都市を生成し、様々な社会設計を検証することだろう。税制度や輸送ネットワーク、教育政策や金融政策なんかも、シミュレーションするだろう。そして恐らくは、あるいは願わくば、成果が最も広く公共の利益に貢献する施策が採用され、実装されるのだろう。

そんな時代がもう目の前に来ている。

半導体を AI が設計する時代、ロボットを AI がミラーワールドで設計する時代。そしてその先にある、社会構造を生成する時代は、すでに幕を開けているのかもしれない。

「生成」という言葉には、即興的で非構造的なイメージもある。でも実際には、生成 AI は構造を発明する能力に長けている。自然界がそうであったように、一見すると無秩序に見える成果の連続性を俯瞰して観測したとき、そこには一貫した論理が見出されるのだろう。
それを人間が認知できるかどうかは、わからない。

行政の中にもこうしたテクノロジーや、それを受け入れる体制が入れば、従来とは違うタイプの政策づくりが可能になる。データがあるかどうかではなく、エビデンスというレベルの評価基準でもない。検証した結果が実装される社会が誕生する。
そのときは、ゲームのルールが変わる時であり、民主主義の在り方も、変わらざるをえないのかもしれない。

都市をつくる。制度をつくる。ライフラインをつくる。
これまで人間にしかできないと思われていたそれらの行為が、当たり前のように人間よりも質の高い最大の成果に結びつく──そんな時代が、検証を経て実装される段階に来ている。

その時の「正しさ」や「最大の幸福」や「もっとも良い結果」の判断基準は、誰が、どうやって定めることになるのだろうか。人間には、その判断を下すことすら、もうできないのかもしれない。

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AI がエッジ側に存在する時

人々が自分用に特化された<AI>を持ち歩くことが、スタンダードになりはじめた。これは拡大の方向に進んできたが、Apple Intelligence が始まって以来、それは日々体感できるようになった。

クラウドで動くものと比較すれば、まだ課題もある。でも、重要なのはそこではない。
例えば iOS 端末にある圧倒的な個人情報が活用されれば、これまでにない使い方が可能になるし、精度もまったく新しい手法により急上昇する可能性がある。
そしてやがては、インターネットに繋がっていない場所でも、完全にオフラインで AI が動く時がやってくる。それ自体が、ひとつの社会的な転換になる。

スマートフォンはもう、ただのパーソナルコンピューターではなくなる。
ひとつの AI サーバーであり、個人の記憶装置であり、意思決定支援システムになる。通信を前提にしない、自己完結した対話と処理を行うローカル AI がやってくれば、プライバシーは再定義され、ソブリン・コンピューティングが実現する。

まさに、拡張された脳だ。自分のことを学び、自分の中で動き、自分のために最適化されていく。何をどう残すか、どこまでを学習対象とするか、どこまでを共有するか。そうした判断がすべて「自分の中」で行われる。いまのクラウド前提の AI とは、まったく異なる世界がそこにはある。

企業の中にサーバーがあった時代。
クラウドの中にサーバーが集約された時代。
そして次は、個人の中にサーバーが分散されていく時代。

きっとこの流れは止まらない。

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AI の存在があたりまえだと気づく日

AI を使うのが普通な世界は、一部ではすでに到来している。
しかし社会全体にはまだ浸透していない。このギャップは大きいと思う。

1990年代の終わり頃、初めて HTML を書いたときのことをよく覚えている。タグを覚えて、テキストエディタで手打ちして、FTP でアップロードして、ブラウザーで確認する。
たったそれだけのことが、やけに楽しかった。何かを「自分で動かしている」感じがあった。CGI を使って掲示板を設置したり、インターネット越しにファイルを共有したり、少しずつ「ネットが使えるようになっていく」感覚があった。

あの頃は、使える人と使えない人がはっきり分かれていた。その境界線がどんどん消えていき、気づけば誰もがネットの中にいた。

AI も、いまちょうどその状態にある。

今はまだ prompt の書き方や、どのモデルが得意かどうかを気にしている。でも、そういうのもすぐに曖昧になる。AI に何かを頼むことが、カフェでメニューを選ぶくらいには自然な行為になる。

思えば iPhone も印象的だった。2007 年に出た当初は「一部のギークが触ってる端末」だったのに、数年で誰もが使っていた。
スマートフォンを使っている人とそうじゃない人、インターネットを使っている人とそうじゃない人、蒸気機関を使っている人とそうじゃない人──変化は劇的に、それも急速に訪れるが、その渦中にいるとその事実を認識できない。

AI も、あとで振り返ってはじめて、社会に浸透していたことに気がつくのだろう。

AI を使うのは、別にすごいことじゃない。ただ、便利な道具であり、生活の一部になる。その時代は、思えば数年前から始まっていたし、振り返ってそれを認知できる日もまもなく訪れるだろう。

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計算能力資源を得るための一次資源としての GPU

資源が戦略になる時代というのは、いつも後から振り返って意味が見えてくる。

石油の時代がそうだった。エネルギー資源を生み出すための一次資源としての、石油だ。19世紀末には灯りを灯すだけのものだった油が、20世紀を通して国家の命運を分ける存在になっていった。

今、似たようなことが計算能力資源にも起きつつある。
これまで抽象的な単位であった計算能力資源が、GPU という単位になり、市場取引の対象になった。

生成 AI を動かすには、GPU が必要だ。しかも、ただの GPU ではなく、高速なメモリ帯域と並列演算性能を持つものが、2025年初頭の段階では必要になっている。生成 AI 市場における GPU は最重要インフラの一部であり、資源であり、通貨である。それも人間を超越した存在と価値を共通認識できる、数少ない資源であり、通貨だ。

生成 AI 市場が拡大し、市場全体の中で割合を増すごとに、誰がその資源をどれだけ握っているかが重要視される。それは、そのまま経済圏の分布や、プロトコルの主導権や、社会制御の可視範囲を決定することに繋がる。

しかし、GPU の価値はただの所有では決まらないという点はおもしろい。ここも、石油に似ている。GPU は結局、電力がなければ動かないし、冷却ができなければ密度を上げられない。最適なソフトウェアがなければ、せっかくの資源も活かしきれない。

つまり、GPU の時代には、「資源を持っている」だけではなく、「資源を回せる構造を持っているか」が問われる。石油が産地と消費地の間で政治的な緊張を生んだように、GPU もまた、地理と権力の構造に組み込まれている。

この時代に生きる自分たちが、そこにどう関わっていくかを考えるとき、「どこに GPU があるか」よりも、「どうやって GPU を社会の中に埋め込むか」に焦点を当てるべきだと思っている。

都市の中に、地域の産業の中に、教育の現場の中に、GPU をどう流通させるか。AI インフラがクラウドの中だけにあるのではなく、地域の中で自律的に使われるようにするにはどうすればいいか。
その問いに向き合う時代が、もう始まっている。

もうひとつ追記すれば、GPU(GPGPU)は現在この瞬間の単位であり一次資源に過ぎず、そこも石油に似ていると思う。結果として得たいものが計算能力資源である限り、今後は GPU 以外の半導体資源の急速な成長は間違いない。サステナビリティーはここでも鍵だと思う。

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