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雑記

人生に必要なカタルシス

これまでに僕は、コンテンツを消費する能力が劣っているのではないかと自問自答してきました。そんな中、コンテンツを消費する過程で生じるカタルシスの重要視にようやく気付き、事の重大さを理解しました。

コンテンツを消費する能力の話はこちらです。

演劇や音楽のライブ、イベントごとのような外向きのコンテンツは当然のように、自分には不向きだと割り切ってきました。正直、あまり楽しめません。少なくともこれまではそうでした。
加えて、漫画、映画、ドラマ、音楽などの自宅で完結するタイプのコンテンツですらも、あまり自分には合っていなかったことに気付き始めました。そして振り返れば、好きだと思っていたアニメすらも、実はそれほど楽しめていなかったのです。

でもまぁ、そんなものはなくてもいいや、ぐらいに思っていました。本来必須のものではなく、あれば幸せという種類のものであれば、別になくても構わないというスタンスでした。
でも、そうではなく、人生にカタルシスは必要なのだということに気づいてしまったのです。

きっかけは、フロイトが治療方法の一環でカタルシスの重要性を説いたという記述を本で読んだときでした。
例えるならば体内に溜まった膿を排出する必要があるように、精神の安定性を維持するためには、ストレスからの開放による緊張からの緩和の瞬間が必要だし、涙を流すことも必要だということです。そうやってカタルシスを感じることで、精神は安定します。

ここに来て、やっとエンタメの必要性を感じました。それがなければ、人々は笑ったり泣いたりというカタルシスを感じる機会を失うわけです。それは健全ではありません。

これまで演劇もライブも、正直に言えば、必要無いじゃないかと思っていました。叫んでストレス解消とか、音楽に浸ってストレス解消というのが、自分にはたまたま理解できなかったからです。でも、そうではないということを理解しました。

自分自身を検証してみれば、きっと形は違えど、何らかのカタルシスは生活の中に溢れているはずです。それがなければ、刺激もない変化もない平凡な日々を送っていることを意味してしまいます。
僕が多少なりともゲームをやるのは、それもわりと緊張感が高まるバトルロイヤル系を熱心にやるのは、カタルシスの不足を補う行為だったのかもしれません。過度な空腹でカロリー過多なファーストフードを欲する現象に近いものを感じます。

そんなわけで、コンテンツを消費するのがめんどくさいとか思わないで、多くの感動や笑いや驚きを獲得できるように、人生にボラティリティーを求めようと思います。

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