いつの間にか、テレビを見ることが当たり前では無い時代に入りました。少なくとも僕自身はそうです。でもこれは、個人の体験でしかないのかもしれません。
全く調べてはいませんが、おそらく特定の世代は、これまでの習慣を変えることなく、今もテレビを見続けていることでしょう。団欒の背景にはいつもテレビがあり、見ていなくても流れているという環境は多いのではないでしょうか。高齢化している日本では、比率としてはそのような、テレビに依存した環境はむしろまだ主流なのかもしれません。だからこそテレビが情報ソースとして第一であり続けるし、そこからの影響は絶大なのかもしれません。
一方、少数派である世代、特に今の子供たちや若年世代は、必ずしもテレビを見ない生活に切り替わっていると推測しています。これも統計を確認したわけでもなく、見聞きした範囲の情報でしかありませんが、常にテレビを見ているという人は増えてはいないと感じます。そもそも少子化しているので、増えているわけはありません。つまり、テレビを見続けている世代、テレビにのみ依存した人たちは徐々に減っているはずなのです。
実例として面白かったのが、最近の子供が、野球を全く知らないシーンを見た時でした。かつてはテレビで放送されていた関係で、興味がなくてもどんなスポーツかとか、どんなチームがあるかとかは一般常識的に知るものだったと記憶しています。ところが現代においては、触れる機会もないのか、ゼロ知識で野球に遭遇する様子は興味深いものでした。確かに客観的に考えてみて、今野球のルールを知っている日本人はどれほどいるでしょうか?いや、どれほど増えたでしょうか。
たまたまそれが特殊な場面だったのかもしれませんが、こういうケースは増えていくことになります。
ここで、触れたのは、当たり前が共有されない世界観です。それは、一般常識というか、一般知識、前提知識が、多様化の時代では共有できないことを意味しています。それでもなお共有されるべき事項や必須の知識は生き残るでしょうが、本質的に不要な情報と判断されたものはどんどん削ぎ落とされていき、グローバルで必須の情報が中心を占める状態に近づくことでしょう。
それはまさに、共通理解できる概念を削ぎ落としてスリム化し、共通語として発展した英語のようです。個々の分野に入り組んだ複雑な前提知識というのは失われ、効率化が図られます。
そんな中でも、世界共通で通じる話題は一瞬でバズり、駆け巡ります。文化的な差異を吸収し、スタンダードになるものが次々と出てきます。文化もまた、ここである程度の均一化が起こることになります。
ランダムな情報に触れて強制的に新しい興味を刺激される、という役割は、テレビのような密度の薄い多数への一斉発信スタイルから、YouTube のようなアルゴリズムによって極端に最適化されたレーザービームのようなスタイルに移行しました。高密度栄養食と捉えるか、ジャンクフードと捉えるかは、結果を待つしかありません。
この先、多様なニーズに応える細分化されたニッチなトレンドが渦巻く社会がやってきますが、失われた文化を乗り越え、引き続き多様性を維持できるのか、興味深くみています。