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雑記

AI の存在があたりまえだと気づく日

AI を使うのが普通な世界は、一部ではすでに到来している。
しかし社会全体にはまだ浸透していない。このギャップは大きいと思う。

1990年代の終わり頃、初めて HTML を書いたときのことをよく覚えている。タグを覚えて、テキストエディタで手打ちして、FTP でアップロードして、ブラウザーで確認する。
たったそれだけのことが、やけに楽しかった。何かを「自分で動かしている」感じがあった。CGI を使って掲示板を設置したり、インターネット越しにファイルを共有したり、少しずつ「ネットが使えるようになっていく」感覚があった。

あの頃は、使える人と使えない人がはっきり分かれていた。その境界線がどんどん消えていき、気づけば誰もがネットの中にいた。

AI も、いまちょうどその状態にある。

今はまだ prompt の書き方や、どのモデルが得意かどうかを気にしている。でも、そういうのもすぐに曖昧になる。AI に何かを頼むことが、カフェでメニューを選ぶくらいには自然な行為になる。

思えば iPhone も印象的だった。2007 年に出た当初は「一部のギークが触ってる端末」だったのに、数年で誰もが使っていた。
スマートフォンを使っている人とそうじゃない人、インターネットを使っている人とそうじゃない人、蒸気機関を使っている人とそうじゃない人──変化は劇的に、それも急速に訪れるが、その渦中にいるとその事実を認識できない。

AI も、あとで振り返ってはじめて、社会に浸透していたことに気がつくのだろう。

AI を使うのは、別にすごいことじゃない。ただ、便利な道具であり、生活の一部になる。その時代は、思えば数年前から始まっていたし、振り返ってそれを認知できる日もまもなく訪れるだろう。

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