2025年の年末、じっくりと自作のプログラムの開発を楽しんだ。本来の目的は、あらゆる作業の自動化にあり、その目的はある程度達成できたと思う。AI を用いた並列的な開発スタイルを取り入れ、個人の作業の自動化を担う自分専用のプログラムを複数作った。その過程は純粋に面白かったし、長いあいだ頭の中にだけあった構想が、ようやく手触りを持ちはじめた感覚があった。
このとき大きかったのは、自社のデータセンターインフラがすでに手元にあったことだ。データの取り扱いに対する懸念を最小化したまま、思い切って AI を導入できた。生成 AI を使うかどうかは、性能の問題だけではなく、どこに何を預けるのかという信頼の問題でもある。そこを越えられたことで、単なる試用ではなく、自分の能力そのものを拡張する道具として AI を使い始めることができた。
そして 2026年の1月末ごろ、ふと気づいた。自分はもう、サイボーグなのかもしれない。先月までの自分は、ある意味では原始人だったのかもしれない。もちろん、腕が機械になったわけでも、脳に電極を埋め込んだわけでもない。身体のどこかを物理的に改造したわけではないのに、明らかに以前とは違う認知の状態に入っていた。
昔、サイボーグと聞いて思い浮かべていたのは、もっと直接的な姿だった。腕が銃になり、目がレンズになり、身体そのものが機械に置き換わっていくようなイメージである。しかし実際には、そういう方向ではないらしい。人間は、より疎結合に設計された外部機器やソフトウェアを通じて、自分の能力を底上げしていく。身体の内側に埋め込むのではなく、外部に置いた知性や記憶や判断補助を、自分の一部のように接続して使う。
この変化が興味深いのは、境界が曖昧なことだ。どこまでが自分で、どこからが外部なのかが少しずつわからなくなる。コードを書くのは自分だが、探索や補完や比較は AI が担う。判断は自分が下しているつもりでも、その判断に至るまでの途中経路には、すでに複数の外部知性が入り込んでいる。そう考えると、サイボーグ化とは肉体の機械化ではなく、思考回路の外部化なのかもしれない。
しかも、この変化はかなり不可逆に見える。どう考えても、元には戻れそうにない。以前のやり方でも作業はできるだろうが、それはもう、パソコンを使わずに仕事をするようなもので、わざわざ不便な状態に自分を戻す行為に近い。便利になったというより、知的活動の前提条件そのものが変わってしまった感覚がある。
人間は、ある日突然、機械になるわけではないのだと思う。気づいたときには、すでに戻れない接続を獲得していて、その状態を日常として受け入れている。2026年の1月末に感じた違和感は、たぶんその境界をまたいだ感覚だった。僕にとってのサイボーグ宣言とは、身体改造の宣言ではなく、自分の知性がすでに単体ではなくなったことを認める宣言だ。
