Waymo を違和感なく受け入れてしまう気持ちは、正直よくわかる。珍しいもの見たさもあるし、テクノロジー好きとしては見逃せない完成度だと思う。実際、街中で見かけるたびに、ひとつの時代の転換点を目撃しているような感覚になる。
ただ、その高揚感とは別に、Waymo の視点を意識せざるを得ない。彼らは LiDAR という目を持っている。都市の中を走りながら、道路の形状だけではなく、そこに存在する人や物の位置、動き、反応を継続的に捉えている。自動運転の実現という文脈だけで見ると、それは便利な技術であり、タクシー不足を補う現実的な解にも見える。しかし本質は、走る車両そのものよりも、その車両が見ている世界のほうにあるのではないかと思う。
重要なのは、何をどこまで認識しているのかということだけではない。その情報が、どの会社に、どの形式で、どれだけ継続的に蓄積されていくのかという点である。地形情報や道路状況だけでなく、人の流れ、混雑の変化、歩行者の反応、街の時間帯ごとの表情まで、都市そのものの振る舞いが記録されていく。短期的には配車の効率化や安全性向上に役立つとしても、長期的には「現実を誰が見て、誰が所有するのか」という問いにつながっていく。
この点で思い出すのが、最近の Niantic の動きである。位置情報や画像情報を起点に、現実空間を理解するためのデータを蓄積してきた企業が、その資産をロボットや配送のような現実世界のサービスと接続し始めている。これは、データの集め方と使い方が、ようやく社会にとって見えやすい形になってきた事例だと思う。
Twitter や Facebook の時代にも、膨大なデータは集まっていた。しかし、その価値や影響力は、情報空間の中だけでは十分に実感されにくかった。タイムラインや広告、レコメンドの精度として現れるだけでは、社会の側も危機感を持ちにくい。ところが、現実空間の地図や移動、配送、ロボティクスに結びついた瞬間、そのデータの重みは急に輪郭を持ちはじめる。
Waymo は、今日も街を走っている。ただ車両として走っているのではなく、現実を LiDAR とカメラで見つめ、都市を少しずつ写し取っている。自動運転の未来を考えるということは、交通の未来だけではなく、現実そのものをどの企業が観測し、蓄積し、再構成するのかを考えることでもあるのだと思う。
