それを初めて理解した瞬間がありました。メタバースの可能性や Web3 時代のインターネットのあるべき姿なんて複雑なことは必要ありませんでした。
きっかけは、病気で動けない子供がゲーム上の空間で走り回る姿でした。そのゲームは、誰がプレイしても自由に動き回るまでにはそれなりの練習が必要なものです。ですが、その子は見事に走り回っていました。走り回るどころか、世界を縦横無尽に飛び回るわけです。プレイ画面だけ見ていたら、ただただゲームがうまい人がやっているという光景しか目に入りません。
現実世界の方の身体性は、少なくともその瞬間、その子にとっては重要性が低くなっています。ゲーム空間の中では、他者と変わらないどころか、比較優位な身体的自由を手にしています。GameFi、Play to Earn でメタバース空間上に国境の無い労働が誕生したように、そこには新しい身体性の概念が根付いていました。
コミュニケーションを伴うオンラインゲームの空間、広義のメタバースのひとつの中では、自身の投影となるアバターが他のアバターと連携をとりながら、活動をします。そこでは仮に会話がなくても、共通の言語であったりプロトコルは存在しており、人は社会を形成し活動します。
メタバースの価値は、そこにこそあるのではないでしょうか。リアル世界の人格、あるいは身体性からの分離です。そこでは人間の認知構造にも変化をもたらす可能性があります。
かつて機動戦士ガンダムでは、宇宙空間で人類が獲得する新たな認知能力を描きました。それをもつニュータイプと旧人類との間の、わかりあえない壁も描きました。今まさに、それに近しいことが起ころうとしているのではないでしょうか。
分散認証による次世代のメタバース社会こそが未来だと思ってきましたが、その重要性はさらに増すことになりそうです。