当たり前のように選択していたことが、実は翻って見つめてみれば、危険な判断の繰り返しだったのかもしれないと思うようになりました。これを学習と呼ぶのでしょうか。
引っ越して2年が経ちますが、カーテンがありませんでした。必要性を感じなかったからです。朝眩しければ、アイマスクをつければよいのであって、カーテンをつける必要はありません。冷暖房の効率が悪くなるという弊害は多少はあるでしょうが、そもそもちゃんとした窓ならば、そこまでの影響は感じません。
大型テレビに Apple TV をつないで使っていますが、大きなスピーカー、サウンドバーやサラウンドシステムはもう使っていません。それよりも、AirPods Pro を繋いだ方が、音も良いし周辺に迷惑にもなり得ないし、求める体験に近づけるからです。空間オーディオを楽しむのなら、むしろそれが最適解とさえ思えます。必要とあれば、複数人で共有だって可能なわけで、わざわざ空間全体に音をたれがなす必要はもう無いのです。
今に始まったことではありません。この判断、これに似た判断はこれまでにも繰り返してきました。でもよくよく考えてみたら、原因の根本解決ではなく、対処療法に近い、近視眼的な対策のようにも思えてきたのです。原因とか言い出すと太陽が出るのが悪いということに飛躍しそうですが、少なくとも朝眩しいことの対策として原因を特定するならば、本来はやはり、カーテンを設置すべきなのでしょう。
それをせず、アイマスクで対応するというのは、視点が自分自身によりすぎていると気づいたのです。今更ですが、気づいたのです。
これはつまり、あらゆる場面において、思考が自分一人の世界に集約していることを意味します。この一連の解決策やそれに至る思考は、周り全体への影響を考えておらず、世間全体をカバーするのではなく、自分さえ救われれば良いというモデルになっています。大変危険が思考パターンです。
どんどん、自分の殻に閉じこもり、自分さえ良ければそれで良いという世界観が醸成されます。誰かをそこに招き入れることもなく、心を開くこともなく、あらゆる判断が内向きに閉ざされて行来ます。
それが必ずしも悪いとは思いませんが、現在の自分の立場からすれば、致命的な問題に発展する気がしてなりません。
そんなわけで、引っ越しから2年が経過するのを目前にし、カーテンを購入しました。