カテゴリー
雑記

スーパーカブを観て考える環境負荷と人間の傲慢さ

アニメ「スーパーカブ」は時々話題になっています。あまりにも平坦なストレスの少ない趣味全開の作品で、疲れた現代人にとって何よりの癒しとして機能するアニメとしてです。
予想外に Twitter 警察に交通ルールを突っ込まれて炎上をしていましたが、普通に観ている分には精神安定剤みたいな作品になっています。

誰も傷つけないし、心も乱されないアニメと言えば、ゆるキャン▲も人気がありました。どちらも、過剰にストレスフルな現代社会において、一定の需要があることをはっきりとさせました。今や Netflix を開いても、殺伐とした設定の作品がたくさん推奨されます。現実を見れば、空想を超える地獄がメディアからは伝わってきます。必然的に生まれた市場ではないでしょうか。

さて、ゆるキャン▲にしてもスーパーカブにしても、どちらも原付が出てきてやたらと走行するシーンが多いのですが、ふと気になってしまいました。癒しのアニメとしては優秀だと思うのですが、生活に必要な移動とは全く関係のないシーンでカブなりスクーターなりに乗っているのをみると、いくらそれらが圧倒的に燃費が良いとしても、そもそも化石燃料を使って遊ぶことは許されるのだろうかという問題です。

スーパーカブで「私の世界」を広げるために、無自覚に地球環境を破壊していくあたり、成長を続ける現代社会への痛烈な皮肉を感じます。作品の演出として、ガソリンを使えば使うほど絵面が色鮮やかになる時があるのですが、それは内面からの視点でしか世界を捉えていなくて、人類のエゴ描写として秀逸と言えます。客観的に見た場合、世界は灰色に濁っていくのですが、それは見えていないのです。

勝手に想像するに、スーパーカブに協力している Honda の意見としては、より燃費の良い比較的エコな乗り物を普及させることで社会を良くしていきたいと言うことなのでしょう。だとしても、遊びで乗り回すことを推奨して良いのでしょうか。燃費が良いとかは根本的な解決になっていません。今の雇用や社会環境を維持することを考えたら、根本解決を図るイノベーションが難しいのは理解します。それでも、だからといって、化石燃料を積極的に使うことを美化することは未来志向とは思えないのです。
もしかしたらこの先、ガソリンを使う乗り物は、タバコのように扱いが難しい存在になるかもしれません。アニメでも二酸化炭素排出権を購入するシーンが考慮されるのではないでしょうか。

また、この問題は同時にもうひとつの課題を想起させました。今のところ同じくエコではない方法で発電された電力に依存する Bitcoin や Ethereum にも、似たようなことは言えるはずです。普及や市場の拡大のためとはいえ、無価値なトランザクションを量産することは現時点で正しいのだろうかと考えさせられるわけです。例えば NFT は推せるのか推せないのか、ものすごく考えさせられました。

癒しのアニメのはずですが、悩みが深まって思考がまとまりません。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください