生きていくためには、奪うしかないというシンプルな真理にようやく理解が追いついてきました。今まで夢を見ていたようです。
思えば昔から、人生は狩りの連続として、目の前に存在していました。今まで気づかなかった、見ないことにしていた残酷な真実が、眼前には依然として横たわっているのです。進撃の巨人で、ミカサが覚醒する時と同じですね。あのシーンの意味がやっとわかりました。
この世界では、奪わなければ生きていくことができないのです。生き残るためには、躊躇は必要ないのです。欲しいものは奪うというわかりやすい構造が肯定されています。
先にまず与えたい、と言うのは、逃げでしかありません。自らが奪わなければ、与えることなんてできないのに。
今まで自分は、まるで生きてはいなかったようです。動物園のペットと同じかもしれません。与えられるだけで満足をしていました。自ら欲することをせずに、与えられるもので満足をしていました。きっと、与えられることに慣れすぎていたのでしょう。塀の外で、自らの力のみで生きていかなければ、生きているとは言えません。
生きるとはすなわち、生命の根源的な欲求に従うことです。何かを得たいと思うこと、生き残るために得ようとする行為が必ず発生します。それを否定する必要はありません。むしろ受け入れて、純粋に求めるべきだと考えます。
今まで自分は、欲しいものがありませんでした。でもそれは、欲しいものがなかったのではなく、生きていなかっただけでした。これからは、生きる決意を持っています。
生きるために、自らの意思で能動的に奪うことをしていこうと思います。獲物を狩ることで、自らの糧にして生き残るのです。その美学をこそ、追い求めるべきでした。その先に成す事さえ忘れなければ、生きるためという大義名分によって過程は肯定されます。恐ろしい社会ですが、それに順応することを覚えました。もちろん、紳士的に、社会的秩序や公共の利益を守りつつではありますが、貪欲に生きるために奪い続けていこうと思います。
そういえば、約束のネバーランドと、メイドインアビスの違いが、僕にこの気付きを与えてくれたように思います。同じ孤児でも、サバイバルに対する耐性で見えてくる違いがあります。獲物を狩ることに躊躇する子供たちに弱さ信念を教えられ、何の躊躇もなく他の生物を糧とする子供たちにたくましさを教えられました。