人によっては、これはわりと大事な戦略かもしれません。少なくとも自分にとっては、有効な手段であることがわかってきました。これまでの経験に基づき、今更になって気付いたことではありますが、大変有意義な発見でした。
どうしても人は、自分が間違っていると認めることができません。自分の思い込みには引きずられます。恋は盲目とは言いますが、恋に限らず、アイデアにしても人との出会いにしても、心拍数を上昇させ内発的動機にスイッチを入れるものを発見すれば、人は自動的に動いてしまいます。それは外部からのエネルギー供給を必要としないため、簡単には止めることはできません。それどころか、速度を低下させることすら自分自身では困難です。
性格や脳の特性によっては、この段階で客観的視点を持って自らを律することができたり、横道にそれていないかを検証したりできる人もいると思います。第三者の帽子をかぶり、検証する技術を身に着けた人はその点で強いです。素晴らしい出会いに対しては、費やされる熱量が桁違いの状態に陥っているため、間違っていた場合に失う時間と労力は計り知れません。たった1度の角度の違いでも、高速に移動すれば大きなズレになります。
僕の場合は、周囲が見えなくなります。それを怠慢だと思い矯正しようと試みたのですが、どうやら ADHD 的特性の影響などもあり、そもそも自分に期待することが戦略的に間違っていたことに気付いた数年でした。
今僕は、自分の見る目を全く信用していません。もちろん、ある特定の分野に関しては、逆に自分の見る目しか信用していません。それは事業のコアを担う部分であったり、いわゆる信念に抵触する部分だったりします。そこが信用できなくなれば、破綻してしまいます。だから疑う必要は無いのです。 一方でその周辺を囲う数多の事象については、信じることを止めました。見方を変えれば、信じることに費やすリソースを一点に集約しています。
例えば僕は、人を見る目を信用していません。いわゆる経営者というカテゴリーで見たら、これは致命的なことかもしれません。しかし自分にはそれができる素質はありませんでした。努力して改善することも止めました。そこにリソースを割くべきではないと判断できる程に、事実が積み重なったからです。
対人関係については、短期的で短略的な判断しか、おそらくできていませんでした。対人関係において本来重要であり判断材料の過半を占めるべき、言葉以外に表れる情報を全く読み取れていないからです。
対策は、民主主義的な方法を採用しています。僕が委任している、最高意思決定機構に委ねるのです。そこでは投票によって、方針が決まります。委任者を決める過程を間違えなければという前提が付きますが、自分を含むステークホルダーにとって、多くの決定は正しく下されます。
もちろん委任者を誤れば全てが破綻するわけですが、目先の判断を全て自分でやるよりは精度が高いことが経験上わかりました。僕自身の能力の欠損ゆえの結論です。
この対策のメリットは、やはり判断のコストが安くつくことです。自分が判断することにかける労力や時間コストは、もっと大局を左右する部分に集中投下する必要があります。
このように、直接民主主義ではなくて間接民主主義にすることによって、僕自身は信用ならない自分の目や耳を捨てました。時間をかけて、委任先を選ぶ選挙を行ってきたので、その成果が出始めています。
どう足掻いても自らが判断せざるを得ない部分、したい部分、しなければアイデンティティーが崩壊する部分に関しては、引き続き独裁主義を貫き、決断する責任を引き受け続けます。それは信念に由来する領域だからです。