SnapChat の消える投稿が話題になった時、それになんの意味があるのか理解できませんでした。ところが、徐々にその必要性を見聞きするうちに、自分には必要ないけれども、この世界には必要な物だと納得するようになりました。ただし、自分では使ったことがありませんでした。
その後、暗号化メッセージングアプリの間で消えるメッセージが取り入れられるようになり、ようやくその優位性や存在意義が、プライバシー保護の文脈で理解できるようになりました。
それでも、Instagram で Stories (Story) が始まった時、またわからなくなりました。限定された空間で何をどうしたいんだろうと、これまでの Web の常識に囚われた旧世代の思考が拒絶反応を示していました。検索不可能なストーリーの画像化されたテキストデータなんて、ゴミだと思い馬鹿にしていました。特に、一時停止しないと読めないほどの長文とか、小さい文字で投稿されているストーリーがあると知った時には、なんの生産性も価値も生み出さない無価値な文化だなんて、切り捨てていました。
でも、やっとわかってきたのです。そこには、心理的安全性が設計されていたわけです。荒れ果てた SNS に登場した希望の世界だったのです。デジタルタトゥーなんて言われますが、インターネット上にある情報が消えないことに対する弊害や不安の方が大きかった世代にとって、あれは福音です。友達だけに限定された安全な世界です。それでいて、メッセンジャー系アプリのグループのような、村社会のしきたりに縛られてしまった閉鎖的社会空間よりは開放的です。お互いを否定するコストが高く、肯定するコストが低い、心理的な安全性がある程度担保された設計がなされています。
不特定多数へのリーチを前提としつつも、実質的に閉じた関係性を意識させ、かつ消えることでアーカイブ化や予期せぬバズり方を防いだストーリーは、自己発信の新しい局面を生み出しました。そこには、キーワード検索をして飛んでくる輩も、警察もいません。なんと穏やかなことでしょう。
誰かに何かを伝えたいけれど、全世界に伝えたいわけではないし、意図しないところに届けたいわけでもない、というニーズが見えます。あえて誰かに送りつけるわけでも無いけど、観てもらえる可能性が高いという絶妙なバランスです。
その先にある体験はどのようなものか、今非常に興味があります。