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雑記

手書きの有用性とそれでもデジタルを選択する意図

メモ等について、手書きではなく、すべてをデジタル管理するべきという考え方を持っています。

あえて言うまでもなく、手書きの有用性は何人もの偉大な先人が実証しており、実際に直々に教えていただいたこともあります。脳に対する複数軸からの刺激という観点からも、書き留める行為に対するコスト(労力)の高さからも、記憶の定着や関連付けには一層効果があることは間違いありません。
しかし僕は、それを捨てても他の理由のために手書きをしない考えです。そこには、短期的な理由と、長期的な理由があります。

まず短期的な理由ですが、やはり記述後の検索対策があります。手書きやアナログデータでは検索ができないということが、耐え難い状態です。実際に検索するかどうかではなくて、検索出来ない状態にあることに、そもそも耐えられないのです。そして本当に必要になったときに検索ができないと、苦痛です。
また、記述速度の問題もあります。手書きについて書いた別の記事(毎日書く方法とその意義)でも言及していますが、思考に対して手書きというのが遅すぎます。僕自身が書くのが遅いだけかもしれませんが、手が疲れるし書くのがめんどくさいし、急げば何を書いているのかわからなくなるし、良いことがありません。その文字の崩れ方や、整わないことの柔軟性というアナログの特性を生かして表現の幅を持たせられることを利点に挙げる主張には一理あるとは思っていますが、それに対するデメリットも大きく、僕はデメリットの大きさゆえに容認できないという考えに至りました。
持ち運びの問題もあります。手書きだと、道具一式を常に持ち歩くには荷物が増えます。メモが分散されたり、持ち歩くのを忘れたりすると、情報が不必要に分断されてしまいます。印刷された本もかさばるし、重たいし、良いことがありません。多元的刺激の良さは強調してもし過ぎることはないと重々承知しているつもりですが、やはり物理的な制約は苦痛を伴ってしまいます。

自分自身への反論として、多くを持ち歩いたり、検索しなければならないことがそもそもの問題であると言うことも出来ます。検索可能になっていたり、すべてを持ち歩くことができても、きっかけとなる場面でそのデータの存在自体を忘れていたら、全く意味がありません。記憶にうまく残せていないから、持ち運びが必要になるし、検索などというまどろっこしい事が必要になるという考え方です。たとえ一時的に意識からは辿れなくなっていても、適切にメモの内容を多次元的に記憶できていれば、その多次元的な刺激のリンクの中のどこかから、必要なデータに到達することが可能なのでしょう。そういう体験は誰にでもあると思います。それを身につけることができれば、当人に最適化された最強の情報整理術が完成します。
しかしそれは再現性がなく、職人の技のようでもあります。つまり、うまく行っている人がいたとしても、たとえ本人から直接聞いたとしても、それはたまたまその人の環境や特性が生み出した職人の技であって、他人に推奨できるものかどうかは本人にすらわからないはずなのです。
そういうわけで、どちらが良いとかではなく、これも何かを切り捨てる選択だと思います。アナログの良さを切り捨てる覚悟を持ってデジタル化すれば、メリットに注力して良さを活かし適応できます。

もうひとつの理由、長期的な理由ですが、これは他の人と少し違う視点である可能性があります。
僕の場合は、メモや記憶、思考パターンについて、自分専用のものだとは考えていないのです。これは、今後の自分自身のみならず、多くの自分の複製やそれを参照する存在のために、活かされるべきと考えています。いつか現れるであろう拡張頭脳、外部接続された記憶媒体、ネットワーク化された人格、複製された人工知能、それらを継承し生成された人格にとって、もっとも収集しやすく、検証しやすく、参照しやすいものであるべきと考えています。
つまり、自分の人格がいまこの文章を書いている人間の枠で完了するとは思っていないし、他の人や他の人格、あるいは将来の別の形での自分自身に継承するかもしれないと考えています。継承ではなく、共有かもしれませんし、部分的な提供になることもあるでしょう。その具体的な形態は現在の常識と概念ではイメージできていませんが、それを考え続けたいとは思っています。

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