あるいはなぜ、例え話が必要なのかということについてです。
人は自分の頭に蓄積された知識の範囲でしか考えないし、経験の範囲でしか景色を見ることが出来ません。真に美味しい料理を美味しいと感じるのではなく、食べ慣れた安心感のある味を美味しいと感じるのに似ています。
自身の経験上、この前提を間違えると、人に何かを伝えることが難しくなってしまいます。人に新しい概念を植え付けるのは、ほとんど無理なぐらい難しい事です。
全く新しいものなんて、本人に意思が無ければ、そう頭には入りません。本人に強い動機が無くても学ばなければならない知識は、学校という仕組みの中で、学ぶ体制に身を置き、環境を整備し、雰囲気が圧力をかけて、ようやくスタートラインに立てます。
つまり、短い時間の間に人に何かを説明して伝えるというのは、至難の業なのです。
ではどうすれば人に説明ができるのかというと、相手の頭の中にある知識を利用することになります。それが一番手っ取り早い方法です。なので、例え話が有効になります。
人の記憶は、点ではなく、点と点の関連によって紐付けられて蓄積されるため、既存のネットワークにリンクさせる方法がもっとも効率よく、理解を助け、記憶への定着を促します。
例え話を駆使して、相手の頭の中にある情報、すでに相手がもっている常識や文脈を借りて、再構成し、見せるのです。自分の脳から相手に直接情報を転送するのではなく、相手の中にある素材を使って外部から合成し組み立てるというイメージです。
ここで重要なのは、文脈です。相手の積み上げた知識が多ければ多いほど、外部からも組み立てやすなります。お互いに積み上げている素材の絶対数が多く、かつ共有して持っている文脈が多いほど、話が早いという体験を共有できるわけです。
話題の中心となる分野の知識が少ない相手に対しては、相手の知的リソースが集中している領域を確認し、その中の素材をつかって合成を試みる必要があります。
そもそも知識の絶対数が少ない相手に対しては、生活の知恵や義務教育で学んだ基本原則などを組み合わせて、徐々に話の抽象度をあげていく必要があります。
相手の知識の総量や共有している文脈の把握を十分にしなかった場合、無理やりに関連付けをさせることで、解像度が落ちた不正確な情報を合成してしまうリスクがあります。すでに脳内に入り込んでいる前提知識の方が間違っていたり、これまでの積み上げ方が不十分である可能性も否定できないため、相手に情報を伝えようとする前に、情報収集が必須です。
積み上げた知識が多ければ多いほど良いのかというと、物事の理解という観点から言えば必ずしもそうとは限りません。確かに知識量が多ければ組み立て速度は早いのですが、分野が狭すぎる場合、とんでもない誤解を合成してしまう可能性を持ちます。それは、間違った解釈を高速で組み上げてしまうことになるのです。わかったわかった、つまりこういうことだろ?というのは危険信号である可能性があります。その場合は、ルービックキューブと同じで、一度揃っている面でも容赦なくバラし、前提から組み直します。
誤解や早とちりを生み出すことを防ぐためには、知識の総量を増やすことと、加えて多少の知識の幅が必要になるわけです。生物の進化と同様、多様性が欠かせません。
副作用は、間違った解釈だけではありません。時代とともに変化していくべき知識が固定化されたまま蓄積されていた場合、前提が間違って共有されてしまうこともあります。同じ用語として使っていても、解釈が相当に違うということが有り得てしまいます。
それから、飛躍的な思考ができなくなるという弊害もあります。何事も既存の物事の延長でしか考えなくなってしまうと、全く新しい概念を取り入れることも、自ら生み出すことも難しくなっていきます。ここでもやはり、知識面での多様性が偏りを防ぐ効果を発揮するため、ある程度の幅は必要だと言えます。
理想的には、自分が相手に植え付けた情報をベースにして文脈を形成し、関連付け、知識として解像度を上げていくことです。
短時間でできることではありませんが、単発の説明で終わらせずに、説明したい相手、説得したい相手の脳に継続的に情報を送り込み続けることが、地味ではあるが効果が絶大だ、ということです。