ジブリがなぜ映像配信を拒否し続けているのか、そこには宮崎駿をはじめとしたジブリの中心人物たちの思想が関係しています。
時代や作品のコンテキストを踏まえて、映画館という異空間で限られた時間に観てもらってこその感動が設計されており、単純に映像作品の売上のみを評価の基準とはしていないようです。
商業的な成功は必須であり、観客動員数という客観的な評価基準は存在しますが、上映後の記録メディアの売上が関心事としては低いことがうかがえます。
そういう背景があり、作品の発するメッセージと矛盾するような、配信プロットフォームでの動画漬けの社会をジブリは望んでいないのでしょう。でも、Netflix で配信が始まりました。権利の関係で日本とアメリカは除外されていますが、多くの地域ですでに2020年から始まっています。
決定に至る流れについて、ポッドキャストの「ジブリ汗まみれ」(元はラジオ)で語られていました。
どの回だったか忘れてしまいましたが、2020年に聞いた記憶があります。要点は次のとおりです。
- Netflix は配信の商業的条件が良かった
- ジブリの側にも幅広い人に届く出口を増やすべきという考えがある
- Netflix はクリエーターの味方であった
- 本来取り組む主体になるべきディズニーが21世紀フォックスの買収合併で忙しい
- 今後は Netflix を通しての公開もあるかもしれない
作家側の思想、希望にこだわっているだけでは、商業的に成功を望めず、次の作品へとつながる成果としての売上が確保できません。もちろんこだわりというのは他社・他者との違いであり、そこに本質的価値が存在しますが、バランスを欠いたこだわりは自滅でしかありません。多くの人に届けてこそ、価値は評価され、影響は生まれるわけです。
鈴木プロデューサーは、世の流れに従うと発言されていました。共同制作も、Netflix 次第ではあり得るとも言葉になっていました。おそらく既に何らかの考えが進んでいるのではないでしょうか。コロナ禍で、その可能性は増しています。
一方、ショートムービーはミュージアムでしか見れないことに価値があるとの考えがあるそうです。つまり、それらは今後も、物理的に視聴できる環境を絞ることになります。逆に言えば、そこに守られる価値がまだ残っており、その価値がこれからの時代においてこそ、増していく未来が感じられます。
Netflix の強さとして一番驚いたのは、Netflix が作り手の文化を研究して、提案してきたという点です。つまり、ジブリがなぜ配信しないのか、金銭的条件だけが問題ではないということを理解した上で、そこを突き動かす何かを届けたことになります。思想的な背景や、何を大事にしたいと考えているのかを考え、歩み寄ったということです。独占的地位を活かしての独りよがりな提案ではなかったということです。それが何なのかは知る由もありませんが、例えば今後、手書きのアニメ制作に関してなにか文化的理解を伴うコミットをしたのかもしれませんし、これまでの作品のオリジナリティーの保護についても、考えがあるのだと思います。
日本進出以降のテレビ局との力関係の歴史を振り返れば、コンテンツ産業の歴史の中で驚くほどの短時間に、文化を侵攻することに成功しているとわかります。Netflix の学習速度、柔軟性は、いよいよ他の追随を許さないことが確定するレベルだということです。
同時に、ジブリの今後のビジネス展開には、多少の柔軟性を感じました。ジブリを説得した Netflix の強さを見れば、今後のコンテンツ業界の巻き込み方や速度について、恐ろしさすら感じます。