民主主義とは、本来、主権が国民にあるという前提で設計されている。だが、情報の時代を経て、そしていま AI の時代に入って、主権とは何かという問いそのものが変質しつつある。
計算能力、電力、データなどを含めた計算資源が、国の行く末や社会の方向性を変えうる現代に於いて、主権者たる国民は、どのようにしてその主権を行使しているといえるのか。
情報社会における主権とは、どの情報源を信じ、どのプラットフォームに参加し、どのアルゴリズムに委ねるかの選択だった。だが、AI の時代における主権は、それをもう一段階深く掘り下げる必要がある。
例えば、「どこの計算能力資源で処理された情報を前提にして、自分の意思決定の基盤にしているか」という問いを、私たちは本気で考えるべき段階に来ているのかもしれない。モデルがどこで訓練され、どの国の法制度に準拠し、どのような倫理観で構築されているか。電力はどこから来ていて、その計算処理は誰に管理されているのか。そのすべてが、「私たちの思考」に直結する。そう考えていると、計算資源が新しい主権の土台になりつつあるように感じられる。
この時代において、主権者であるためには、投票権だけでは足りないのかもしれない。どの国家の制度のもとで動くクラウドにデータを預け、どの計算基盤で意思決定を補完しているのか。それを理解し、選択する力が求められる。計算資源の時代における「主権者のリテラシー」として。
すべてを Big Tech に預けてしまえば、それは無意識のうちに、自らの主権を譲り渡していることと同義になる。どの計算能力空間にアクセスできるか。どの計算能力資源にデータを共有するか。それらはもはや政治的な権利なのかもしれない。
この時代において、我々が身につけるべきリテラシーとは何か。
技術的な理解だけではなく、制度、エネルギー、倫理、そして分散化の意味まで含めて、自分がどの「計算能力エコシステムの上」に生きているのかを知ることは、重要ではないだろうか。
それこそが、AI 時代の新しい民主主義の前提になるのではないかと思っている。
