2022年にもなって、銃規制がまともにできない国が存在しています。それも先進国として世界をリードするような国がです。
乱射事件が何度も起きてその度に悲劇として記憶されているにもかかわらず、議論は硬直して前に進まないようです。その点だけでも、もう、住みたい国では無くなってしまいました。衰退著しいという印象です。残念です。
自由や権利を守りたい人々の主張は理解します。けれども、それは人命よりも尊いものなのかと疑問が湧きます。銃を奪われれば、未来永劫自分達が権力に対して、あるいは敵対する者たちに対して対抗する力が奪われるという恐れでしょうか。自立が阻害されるということでしょうか。そういう考え方もできるのかもしれませんが、僕には本当に理解できません。
いまだに暴力が有効であることは、ロシアも示してくれています。銃所持を主張する人たちにとって、後押しとしてこれ以上のことはないでしょうね。
違う価値観を理解するというのは、難しい事です。全くことなるコンテキストに則っているため、根本的な部分で分かり合えないことがあり、その上にわかったつもりが積み重なっています。普段のコミュニケーションや社会経済活動の上ではすでにあるプロトコルが運用上の障害を消してくれますが、それでは分かりあったことにはならないんだと、ようやくわかってきました。
SDGs も良いですが、そもそもそこで?という部分でコンセンサスが取れない国は、民主主義の限界をシンプルに示しています。単に民度が低いという暴力的な表現には収まらない、難しさがあります。でもここで諦めたら進化は停止するわけで、乗り越え方をかんがえていかなければならないのが現世代の課題です。
ビットコインも、フォークしました。ビットコイン程度の規模、ビットコイン程度の参加者の数、ビットコインという圧倒的に尖った思想をもった集団の中でさえ、見解を統一することはできず、フォークしました。それは良いこととして、分散化社会の幕開けとして、受け入れられてきました。それは DAO の難しさでもありますし、良さでもあります。結局のところ、どのような手法を採用しても、分断は避けられず、むしろ適度に分断を繰り返しながら最適な距離関係を構築する機能が人間に備わっているのでしょう。
銃規制の問題でも明るみになった民主主義の課題は、DAO によって解決するというものではありません。DAO には DAO の難しさが’伴います。全体を俯瞰して見て、民主主義的国家の発展と、それを補完協調する DAO の存在が、網の目のように多層構造で接続しあって、その中を人々は移動しながら、あるいは自らの人格を複製しながら、新しい積極的妥協点を探し出すものと推測しています。
最近、銀河英雄伝説を見返しているので、特にそんなことを考えてしまいます。