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雑記

コロナに打ち勝った証としてのオリンピック

いつのまにかオリンピックは終わっていて、次はパラリンピックが始まろうとしています。この間に、コロナウイルスの新規感染者週は急増しており、危機的な状況が続いています。さらに、例年の猛暑に加えて、今年は豪雨も長く続くようで、災害が起きています。

そんなとんでもない状況を記憶しておくために、今の気持ちをまとめます。この先、いつかまたオリンピックを観たいと思う日が来るのだとしたら、それはどんな理由からなのだろうと想像しながら書いています。

過酷な条件が重なる中、オリンピックは結局最後までやり切りました。パラリンピックもこのままやるのでしょう。開催是非を話し合う五者会議の「五者」が誰なのかもよく知りませんが、そこに開催国の住民の意見が反映されていないことだけはわかりました。

何事も多面的に捉える必要があり、ひとつの出来事で喜ぶ人もいれば、悲しむ人もいるのは当然だと理解しています。その前提を思い起こしてみても尚、なぜまだ運動会にこだわるのかが理解できずにいます。
それが目標で頑張った人もいるのでしょう。否定はもちろんできません。でも、こんなことをいつまで繰り返すのでしょうか。

今回の大会を通じて、スポンサーが最重要なことは伝わってきました。アメリカ贔屓があるのはそのためであり、アメリカでの視聴率が指標になっているのでしょう。アメリカがメダルをたくさん取り、たくさんテレビに映ることで視聴率が上がり、スポンサーが喜び、商業として成り立つわけなので、当然です。アメリカの商品がたくさん出ています。理由はさまざまあると思いますが、ロシアが出場できなかったことも、余計な推測をしてしまいます。

コロナ禍で圧倒的なアドバンテージがあった日本が一定以上にメダルを取ったことは、果たしてよかったのでしょうか。日本のスポンサーは民意を敏感に把握して、早期に商業利用を諦めていました。支払われた広告費はもう戻せないにしても、追加でお金をくれてやる必要は全く無くなったわけです。本来1番財布の紐が緩むはずの人たちが、去りました。

そんな状況で、中国がたくさんメダルを取った結果と、アメリカのスポンサーがオリンピックの重要度を下げる可能性を考えれば、中国やロシアの政治利用という方法にオリンピックが利用される可能性が高まるのではないかと個人的には危惧しています。
国と国とで競い合うことの意味はありませんし、宗教色や政治色を排除しても、資本主義ど真ん中のスポンサーに頼った運営をしている限りは、それもまたひとつの宗教に依存した運営であると言えます。
よってやはり今回の東京オリンピックを体験して思ったことは思いのほかはっきりしています。こんな無駄はもう終了するべきです。地域に負担がかかりすぎるし、環境負荷も高いし、経済的利益を得られる人はごく一部に限られているし、感染症は拡散するし、良いことはありません。五大陸五大陸言ってるのだから、各大陸で分散して開催した方が良いのではないでしょうか。

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