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雑記

言語と環境及び文化のミスマッチ問題

複数言語を話す人には共通問題ではないでしょうか。話す言葉、話したい言葉、そのテーマについて適切だと思う言葉が、その環境には適応していないことがあるという問題です。

特定のテーマについて、例えば英語圏で膨大な議論がされており、情報源が豊富にあり、自分も深く関心を寄せているという場合に、日本語で情報を発信してもあまり意味をなさない状態に陥りします。
その活動を通して日本語文化圏でも関心を集めることに貢献すれば良いという考え方もありますが、そういった草の根マーケティング活動的なことを誰もができるわけではありません。ただそのテーマについての情報を発信したい、それによってフィードバックを得たい、知見に触れたい、議論に参加したいという場合、諦めて最も活発な英語に切り替えてしまうという選択肢しか思いつきません。でもそれでは大抵の場合、日本語話者のコミュニティーからは、「なんだこいついみわかんね」と思われるのがオチです。例えば日本語圏では、相当に英語アレルギーがあるようです。

この葛藤を極限までシンプルに言えば、Twitter で日本語を使うのか英語を使うのかというのは大変に大きな悩みになります。多くの人が悩んでいると思います。まだまだ機械的に閲覧者に合わせて自動翻訳されるような時代にはなっておらず、人類もメタ言語を操れるわけではありません。特定の言語に絞って情報を吐き出すしか方法は無く、その場合に多くのミスマッチを起こしてしまうのです。
日本語話者にとっては特に深刻な問題ではないでしょうか。あまりにも、英語圏やその他言語圏との間にブリッジが存在せず、完全に場が分かれているケースが大半だからです。プロフィールの名前ひとつとっても、漢字入りの名前を書くことに躊躇してしまいます。

結局の所、それは発信者側が多言語で発信するしか方法は無いというのが現状の理解です。大変に非効率で英語だけの人にくらべて労力が2倍かかってしまうわけですが、逆に言えば日本語圏における競合優位性を持つことにもつながり、英語圏においては独自の参入障壁の高い情報源を得た状態とも言えます。

ちなみに、言語の習得レベルに上も下もないと個人的には思っています。最低限のコミュニケーションが取れれば、それはもう話せるとカウントすべきだし、他者に対しても同様に寛容であるべきです。本当に質の高い出会いや必要性のある関係性の前では、言語の制度など二の次です。
とはいえ、言語習得が不要とは全く思っていないし、おろそかにするべきとも全く思っていません。むしろ、完璧に話せることによる関係構築のショートカットや信用蓄積の効率化は間違いなくあるので、どれだけ機械による通訳が発達しようとも、現状で予測できる範囲の技術成長では、完璧に話せることのアドバンテージは覆らないと内心思っています。

多言語環境にいて悩める人は、諦めて多言語環境を活かす方法を採用するのがベストではないでしょうか。

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