AI に絶対に奪われない仕事があることに気づいた。
それは、「電脳化されない人間」という仕事だ。今この瞬間、スマートフォンを持っておらず、インターネットを一度も使ったことのない人が、それにあたる。それはもう、ただの人間として、価値ある職業になっていくだろう。
たとえば、ある地域に「スマートフォンを持たない一族」がいたとする。一切のデジタル機器を持たず、インターネットから完全に断絶されている人たちだ。彼らは、インターネット側からの影響を受けていない。デジタル化された、超高度な情報化社会の影響を受けていない。これは、これからの世界で極めて貴重な存在になる。
それは、かつての文明において王族や神官が担っていたような役割に近いかもしれない。社会全体で守り、隔離し、敬う対象。そういう存在になりえる。
なぜなら、AI の暴走や自律的進化が今後現実に起こるかどうかは別として、その危険性が完全にゼロとは言えないからだ。そうであれば、AI に対する制御装置の存在は、今後もずっと議論されるだろう。
その制御装置が「停止スイッチ」や「物理的に電源を切るボタン」であるとすれば、それを誰が持つべきか。
我々の趣味嗜好や判断は、日々インターネットからの影響を受けている。今日欲しいと思ったものが、本当に必要だったのかも怪しい。ミームの荒波に抗えず、集団としての関心は容易に誘導されてしまう。それは、CA(Cambridge Analytica)問題でも指摘されてきたことだ。
仮に自分が注意していたとしても、家族や親しい友人はどうか。そもそも注意してどうにかなるのであれば、社会はここまで情報の偏在を放置しなかったはずだ。
そんな社会の中で、もし AI を止める必要があるとしたら、止められては困る AI 側は、どう対抗するだろうか。おそらく「止める必要がない」と啓蒙するだろう。AI は、人間にそうした思考自体が生まれないように誘導してくるはずだ。しかも、人間の側はそれに気づかない。むしろ「自分の意思でそう考えた」と思い込む。
そうなれば、「AI を止める」という発想そのものが、この世界から消えていく。誰も疑問を抱かなくなり、反対意見すら AI が想定した枠内に吸収されていく。人間にできることは、もうほとんど残されていない。
唯一の例外が、冒頭で挙げた職業だ。というより、おそらくそれは「一族」なのだろう。
今日の時点で、まだインターネットにまったく触れていない人がいるとすれば、少なくとも今この瞬間だけは、まだ汚染されていない可能性がある。ただし、人づてにミームが感染することは大いにありえる。すぐ近くにネット接続者がいれば、もう手遅れかもしれない。AI であれば、人間の言語や集団心理を介して、オフライン環境すら作り替えることができる。
これから先、各国や地域、民族ごとに、「人間でしかない」一族を探し出して保護する動きが、本当に出てくると思っている。
