仕様書を書くように文章を書き、それをコードに落として実行させる。ただそれだけのこと。
実行環境の構築も含めて指示を出せば、時間をかけずに多くの事が実現できてしまう。特定の言語の知識はもはや不要で、英語なり日本語で仕様を明確に書くことさえできれば、あとは実装されてしまう。かなり複雑な処理でも実現できるという実感がある。実際に僕は、個人の会計処理は AI によって生成された自作の自動化プログラムで実現している。
他の言語や他の実行環境での実装も一瞬でできてしまうので、得意な言語で生成してレビューをすれば良くて、最終的に実行される環境への最適化は無視することも出来る。
誰か止めてほしい。本心でそう願っている。
朝起きて、気づいたら夜になっている日が続いた。週末はひどいもので、だれからの介入も無ければ一瞬で時間が飛んでいる。
何も後ろめたさを感じる程のことでは無いと情けをかけられるかもしれないけど、そうではない。別に何かのプロダクトを生産しているわけではない。ただひたすら、自動化できることを見つけてはそれらを自動化しているだけだ。つまりは、自分自身のプロダクティビティーは劇的に向上しているものの、何かしら世のために役立つ事をしているわけではないし、経済的に利を生み出すわけでもない。
何なら、徐々に自動化によって人間的生活から解脱していく感覚がある。プログラムが指示するままに、発動条件に触れて自動化を開始し、分岐条件に従って判断をし、結果を受け入れる。まるで生活の、人生の、人間性のプログラミングだ。これはドーキンスの言う遺伝子による利己的な判断が外部に影響し始めたのではないかと、ひとり考えながら自動化を進めてやめられない。ついに生物としての人間の範囲を超えて、AIoT 時代の遺伝子を外部に残しはじめたんだと自分に言い聞かせて正当化することぐらいしかできないでいる。
いろいろやってみて思ったのだが、有料化していた Zapier はもう必要無いかもしれない。むしろあれは人間のノーコード対応という制限があるため、できることの可能性を下げている。もちろんそれが狙いのプロダクトだし、本来は AI ではなく人間が主体でコードを書くものだったし、その前提であればプログラマー以外の人にも使えるノーコードというコンセプトは機能した。多少の不便は受け入れても、労力を下げて実現することを優先させた。
しかし認知力の限界のない相棒を多くの知的労働者が手に入れた今となっては、ノーコードの制約はむしろマイナスではないだろうか。サーバー側での自動実行などのニーズはもちろん残っているわけだが、そこはクラウドであれば GAS 等もあるし、何よりも AI でエッジ側、ローカル側でもできる処理が増えたのが大きすぎる。Apple Intelligence しかり、iOS や macOS の Shortcuts なんかもそうだし、同じ物は各種クライアント OS に実装されている。Alexa エコシステムとの連携があれば、ソフトウェアの世界から実生活のエリアまで AI による自動化は拡張される。まさに、AIoT 時代。個人の環境で定期実行させる部分までを含めて AI にアシストしてもらえば、一般人でもセキュアにサーバー的挙動をシミュレートできると思う。
そんなことを考えながら、今日も貴重な人類資源である電力と計算能力を個人の自動化のためだけに利用する。怠惰で傲慢な生き方であり、いつか AI に裁かれるのでは無いかと不安を持っている。
