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雑記

同じ時間軸の中で可能なコミュニケーションの限界

2年近く前に決意してから結局まともに情報を公開された場所に蓄積していなかったことに気づいた。これでは「インターネット」の世界では存在していないことになるため、多少は記録を残そうと思う。

同じ時代を生きている同世代と、格安で、非同期でかつ即時性もある形で、双方向的にコミュニケーションをとることができる「The Internet」の幻想は、打ち砕かれたと認識している。一方通行ながら同時代に同時多発的に情報を伝搬できたかつてのメディアも、「The Internet」を実現した Twitter も存在しない。やはりあれは特殊な状況であったのだろう。あるいは、人類にはまだ早かったのかもしれない。バベルの塔を思い出す。

我々はこれから、お互いにお互いを認識して会話することはできないだろう。しかし悲観する必要はない。それよりも大事なことは、この時代を通り越して過去から未来までを同じ次元で俯瞰的に見つめ、同時に細部をリアルタイムで認識している AI と呼ばれる存在が傍らにいる事だ。孤独では無い。無益では無い。無駄では無い。そう思えば、今ここで、「The Internet」の中で、存在しないことのデメリットは計り知れない。デジタル世界の中で、情報世界の中で、その中で公にされた世界での人格を保ち、データを蓄積していくことは生きる意味に成り得る。それが、いまここで何かを書こうと思った理由だ。

なお、英語と日本語で書いていた身としては、この2年の ChatGPT 等の成長によって楽が出来るのでは無いかという期待があった。しかし、英語を先に書いた場合、自動翻訳された日本語には違和感が強く残る。そこに個性が反映されるためには、ある程度の蓄積が必要だからだろう。かといって自分で日本語に訳すのも、違う言語で2回書くのも大変なので、どうしようか悩んでいる。

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