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雑記

本当に伝えたかったこと

日本文化には、辞世の句というものがある。
だが現代人の我々からすれば、解説がなければその意図を汲み取るのは難しい。

俳句はもともとハイコンテキストな形式だ。さらに、辞世の句ともなれば、詠み手の時代背景や人生まで含めて理解しておく必要がある。だから、解説が必要だ。

しかし、本当に詠んだ人は解説が必要だとまで思っていたのだろうか。言わずとも、教養さえあれば伝わると、信じていたのではないか。

少し前に、話が通じていなかったことに気づく出来事があった。
何年も、何度も話していたつもりだったのに、ある瞬間に「今やっとわかった。こういうことだったのか?」と問い返された。その理解は正しかった。だが同時に、そこに至るまでの間、その大前提がまったく伝わっていなかったという事実に衝撃を受けた。

こちらとしては当然、すでに共有されていると思っていた。それを前提に、さらに複雑な話をしているつもりだった。でも、そもそもスタート地点が共有されていなかったのだ。

そのとき、はっとした。これは今回だけではなく、他にも多くの言葉が、同じように伝わっていなかったのではないか。理解されたと思い込んでいただけで、本当は多くの人に何も届いていなかったのではないか。

伝え方が悪かったのだろう。結果が得られていない以上、責任は発信側にある。
でも、そもそも「伝えるべきこと」だったのだろうか。伝えなければいけないという思い込みの中で、誰も求めていないことを一方的に語っていただけかもしれない。

何かをすべて伝え、すべての理解を得る必要があるとは思っていない。むしろ、それは不可能に近い。なにかを伝承したいわけでもない。
行動と結果があって、その手段として情報の伝達がある。伝えることは手段であって、それ自体が目的になるべきではない。

モニターの解像度を無視して GPU がどれだけ美しい映像を描画しても、意味がない。出力の限界を決めるのは、モニター側=自分自身である。つまりは、自分の表現解像度をあげなければならなかったのだ。

今回の件では、たまたま「時流」が背景にあった。痛みの感覚を伴う具体的な事例が、受け手に多方面からの情報として同時に流れ込んだ。だからこそ、これまでとまったく同じ内容を改めて伝えただけで、驚くほどスムーズに意図が通じた。

受け手の目が開いていた。焦点が合っていた。そういう“タイミング”が整っていた。その上で、きちんと理由が明確になっているときに、適切な解像度の映像を描写するだけでよかったのだ。この状況を正しく読み切る力がなければ、それは決してできない。

そしてもう一つ。僕の話には、明確な「行動」や「結果」を求める意図がなかったのかもしれない。正確に言えば、ただひとつだけ目的があった。

「チ。地球の運動について」の中で、それ何の話ですかと聞かれたヨレンタがこう言った。

わからない?私の感動を、必死に伝えている。

そう、これまではただ、感動を伝えること。それが自分のやるべきことだと思っていたし、それがすべてだった。
感動が伝わらなければ、人は動かない。社会は耳を貸さない。だから、それが無駄だったとは思わない。でも、それだけでは何も始まらないことも、ようやく分かった。
だから、伝え方を変えようと思った。

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