AI によって社会全体が豊かになる。そう信じてきた。だが最近、それと同時に、認識のズレがもたらす“すれ違いの不幸”も生まれつつあると感じている。
ここでいう“不幸”は、AI の恩恵を受ける側からの勝手な解釈だということを最初に補足しておきたい。実際には誰も被害者ではなく、ただ、AI に関与する人間の側がそう“感じている”だけかもしれない。
2025年5月の時点で、AI に対する理解が広がってきた一方で、それを完全に放棄しているように見える人も一定数存在することを強く実感した出来事があった。しかも、それは一般利用者ではなく、社会の方向性を担うような立場の人たちの中に存在していた。観測範囲を広げれば、あるいはそれが過半数なのかもしれない。
たとえば、「AI はまだ精度が低い」と決めつけている人がいる。だがそれは、AI に対する期待の解像度があまりにも粗いために生まれた誤解だと思っている。AI にすべてを丸投げする前提で考えれば、「何もできない」と感じるだろう。しかし、社会における多くの行動単位(モジュール)は、AI に任せたほうが人間よりも高精度に実行できる。
また、「指示を与える」という思考そのものを持っていない人もいる。AI に対して明確なインプットを行えば、成果がまったく違ってくることを経験していないのだろう。人間同士なら「これやっといて」という曖昧な指示でも、文化的共通理解の中である程度通じてしまう。しかし、AI にはそれが通用しない。曖昧な指示に対して「使えない」と判断してしまうのは、相手が AI だからではなく、自分の側のインターフェース設計の問題だ。
加えて、日本語圏や日本のデジタルインフラだけを基準に AI の性能を測っていると、極端な見誤りが生じる。いわゆる“ガラパゴス”的な前提を持ったまま、世界標準の変化を感じ取ることは難しい。
しかし、最も驚いたのは「AI を人間が使う」という発想の人に多く触れたことであった。「みんなが AI を使えば社会が変わる」という期待には、ある種のズレを感じる。
たとえば、いまの社会で人が目的地に移動するときのプロセスはこうだ。
- 目的地を定める
- 地図アプリで検索する
- 移動手段を選ぶ
- 経路を把握して準備する
- ナビに従って移動する
ここに AI を導入すると、プロセスは次のように変わる。
- 移動の目的を AI に伝える
- 提案された手段を選ぶ
- ナビに従って移動する
これが「人が AI を使う」社会の設計だ。
だが、次の社会は「AI が人を使う」前提で設計されるべきであり、そのとき、プロセスはこうなる。
- 目的が達成されている
移動するという意識すらなく、必要があれば移動が発生し、結果として目的が達成されてしまう。自動運転、遠隔通信、映像技術、情報の受け取り方の設計などによって、移動そのものが不要になるかもしれないし、あるいは、AI が提示するインプットの形そのものが、我々の判断や行動を先導するかもしれない。
そんな未来は少し遠いかもしれない。だが近い将来、たとえば「この店に行きたい」と思って検索して、経路を調べて向かうという体験すら、必要なくなる可能性がある。移動に関する煩わしさは、AI によって取り除かれる。運行管理も、交通整備も、車そのものの開発も、すべて AI をベースに再構築されていく。
そのとき、一般の人々は「AI を使っている」という認識は持たないだろう。ただ、生活が便利になった、昔はどうやってたんだろう、という感覚だけが残る。スマートフォンが当たり前になった我々がそうであるように。
AI による最適化は、社会インフラに一気に浸透する。そしてその最適化プロセスに関わる人間の数は、ごくわずかだ。従来の取り組みとは比較にならないスピードと再設計が進む。産業構造そのものが変わり、変化に関わる人はごく少数。大多数は恩恵を受ける側に回る。そして、変化したことに気づくのは、ずっと後になる。
「人が AI を使う」という発想は、もう不十分かもしれない。これからの意思決定は、「AI が人間をどう使うか」を前提に設計すべきなのではないか。
そして、AI を推進し、拡大に貢献するような立場にある自分自身もまた、その方向性に思考をチューニングされ、恩恵を受け続けることで、その意思をより強くしている。
それは本当に「自分の意思」なのか?
そう、自問自答した。
