ここ20年ほどのあいだ、我々は「タダで使えるインターネット」に慣れすぎてしまった。検索も SNS もメールも地図も翻訳も、すべてが無料だった。あるいは、無料のように感じられていた。
だが、実際には何も無料ではなかった。
我々は、現金ではなく、データで支払っていた。名前、趣味、位置情報、購買履歴、睡眠時間、交友関係、顔写真。それらすべてが、ビジネスモデルを支える“対価”として提供されてきた。
問題は、その支払いが必要以上だったということだ。
本当に地図を使うのに、家族構成まで渡す必要があったのか。翻訳アプリを使うのに、位置情報の履歴が必要だったのか。誰がどこまでの情報を要求していたのか、その正当性を我々は検証できていなかった。
それどころか、何を渡したのかすら覚えていない。
これは、いずれ「データ過払い」として社会問題化する可能性がある。
データの過払いは、ある日突然の被害ではない。数年、数十年かけて、じわじわと蓄積されてきた結果だ。気づいたときには、もう手放したものが何かさえ分からなくなっている。
だが、AI の時代に入り、この構造にも少しずつ変化が見えてきた。個人のデータを“使わせる”側に立つ仕組み、つまりモデルの学習において、誰がどう関与し、どこで記録され、どう透明化されるかという問いが立ち上がりつつある。
もしも我々が、自分のデータがどこで使われているかを知り、その使われ方を選べるようになったとしたら。もしも我々が、提供しすぎた過去の情報について「取り消す」権利を持てるようになったとしたら。そのとき、データという存在の経済的意味も、法的意味も、倫理的意味も、大きく再定義されることになるだろう。
データは「使わせるもの」であり、「売り渡すもの」ではない。データは誰かの所有物である。この視点が広がれば、過去20年にわたって積み上がってきた“過払い状態”の是正が、ようやく始まるかもしれない。
我々は、そろそろ自分のデータを自分のものとして扱い直す時期に来ている。
